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竹林の屋敷

あふれでるパッションが投げ捨てられる、そんなブログ。

梶井基次郎『檸檬』の檸檬が他の果物だったらどんな感じか考えてみた

思考

青空文庫で読めます。→梶井基次郎 檸檬

 

梶井基次郎、1901年生まれ。

独特な感性で日常の中の内面世界を描いた稀代の作家である。

 

彼の作品の中でも一際評価の高いものが『檸檬』。あらすじはこうだ。

 

 

酒酔いで気分が悪くなり、神経衰弱気味になって街へ飛び出した。

金がなく生活は困窮し、現実を見失い安静したいと思う。

商店街でふと見つけた檸檬に胸を打たれ、買い、うれしくなる。

百貨店の本屋で積み上げた本のてっぺんに買った檸檬を置き、心躍る。

置いた檸檬をそのままにして店を出て、くすぐたったい気持ちになる。

 

…………

 

これだけ書くと「なんじゃい」という感じかもしれない。だが、『檸檬』には主人公の心情の変化が見事に描かれていて、これが楽しいのだ。ストーリーを通した描写が秀逸。檸檬の色彩、形状、温度、匂い、重量から幸福感を得る様から、日々の何気ないところに喜びが落ちているもんだと思わされる名作である。主人公の心持ちが過不足なく描かれるから、読み手も同じように楽しい気持ちになったりできる。

 

極めつけは結末部の奇怪なアイデア。買った檸檬を本屋の本の山のてっぺんに置きそのまま店を出るというものだ。ここにはピンポンダッシュをする子供のようないだずらっぽさがあって、いとしい。「このあとあの檸檬が爆発して店が吹っ飛べば……」などと考える主人公は、とてもすがすがしい心持のようである。読んでいてもどこかスッとする話だ。

 

 

紛れもない名著だが、私は思った。このお話は、主人公が、作者である梶井基次郎が選んだ果物が、檸檬だったからこうも心を打つ作品になったのだと。

 

すなわち、檸檬の持つ固有の特徴が重要なのであり、不細工な紡錘形、鮮やかなレモン色、鼻を抜ける酸っぱい匂い、握ったときの重み、これらの要素が絡み合うことで、『檸檬』は成立し、主人公の心が、読者の心が小躍りするストーリーとなり得たのだと考えた。

 

 

そこで私は、梶井基次郎檸檬』が、梶井基次郎『X』{X∈A | A: すべての果物の集合} であった場合を考えてみることにした。比較検証は研究の基本である。

 

 

梶井基次郎『林檎』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい林檎が出ていたのだ。

 私は林檎が好きだ。決して負けんと真っ赤に燃えるあの色も、それからあの美しく洗練された球形も。その林檎の手触りはたとえようもなくよかった。何も邪魔をするもののない、滑らかな曲面は快いものだった。林檎の甘い香りが心にフワりと広がった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に林檎を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その林檎は周囲のゴタゴタを圧するかのように赤く燃えていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの林檎の赤があの店を燃やしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

まずは、林檎。これは、存外悪くないと思った。林檎には独特な力がある。衰弱する心を潤すには十分だろう。林檎に胸を打たれるというのはまぁありそうな話だ。

 

しかし、やはり檸檬には及ばないと言わざるを得ない。そもそも、林檎と言うのは綺麗過ぎるのだ。学業優秀スポーツ万能容姿端麗な優男みたいないけすかない雰囲気がある。

 

街角でこう聞いて回ってみるといい。「果物といえば?」と。おそらくNo.1は林檎であろう。林檎は人気が過ぎるのだ。おいしいし、見た目が綺麗だし。そもそも、目立ちすぎのきらいがある。聖書で禁断の果実として描かれたり、物理学者アイザック・ニュートンの逸話に用いられたり、Appleロゴマークとして使われたり。林檎は紛れもない果物界のエースなのだ。

 

それに比べて檸檬はどうか。「酸っぱすぎて誰も食べない」「ぼこぼこでなんか不細工」。泥臭いのである。泥臭いが、鮮やかな黄色と鼻を抜ける匂いで精一杯の主張する健気さがあるのだ。こうした「ダメダメだけど一生懸命がんばるヤツ」に心打たれるから、『檸檬』の圧倒的魅力が生まれているのだ。林檎ではやはりダメだ。

 

 

梶井基次郎『葡萄』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい葡萄が出ていたのだ。

 私は葡萄が好きだ。決して主張はしない控えめなあの色も、それからあの一粒一粒が懸命に輝く姿も。その葡萄の手触りはたとえようもなくよかった。私の手を撫でる一粒一粒は快いものだった。葡萄の香りが自然の恵みを思い起こさせた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に葡萄を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その葡萄は周囲のやかましさをいなすかのように整然と居座っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの葡萄の一粒一粒が弾けて店を濡らしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

次いで、葡萄。これは、あまりよくない。私がこの編を書くために葡萄の魅力を必死に考える必要があった時点で、葡萄の敗北というものだ。私は右のタブで「葡萄 魅力」を検索していた。葡萄には心に訴えかける魅力が見当たらない。どうも貧弱である。

 

「一粒一粒が懸命に輝く」などと書いたが、これは全く実際ではない。「葡萄といえば一房に実がたくさんあるのが特徴だ」という思考により生まれた観念でしかない。実物の葡萄を見て輝いているなどとは露とも思わないであろう。そもそも、葡萄は色がいけない。地味すぎて心に訴えてくれない。衰弱した心に働きかけるには、分かりやすい視覚が必要である。

 

ただ、結末の、本の山の頂に葡萄が乗る光景は、悪くないなと思った。なんとなくわびさびがあってアートな気がする。ただ、これも「それはそれでいい」というだけの話で、荒んだ心を浮つかせるような魅力はない。檸檬は愚か、林檎にも遠く及ばなかったと言っていい。

 

 

梶井基次郎『蜜柑』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい蜜柑が出ていたのだ。

 私は蜜柑が好きだ。全てを包み込む優しいあの色も、それからあの不器用で不完全な形も。その蜜柑の手触りはたとえようもなくよかった。硬すぎず柔らかすぎない控えめな果皮は快いものだった。蜜柑の爽やかな香りが胸にサラリと運ばれた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に蜜柑を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その蜜柑は周囲の雑然さを包み込むかのように優しく笑っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの蜜柑が爆発してあの店が燃えてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

 檸檬と同じ柑橘類としてエントリーしてきた蜜柑。流石といったところか、檸檬に負けずとも劣らない魅力を感じる。檸檬と同じく蜜柑の造形も幾分か不細工である。ぼこぼこしてるし。それでいて優しい橙色をまとっていて、衰弱した心を癒すだけのチカラは備わっていそうだ。柑橘系の酸っぱい香りも感情を揺さぶるのに良い。

 

ただ、同じ柑橘類であることが祟ったか、やはり檸檬の下位互換という感は拭えない。どうしても、全ての点で檸檬が上回っているのだ。造形は、檸檬の方が素朴で愛らしい。蜜柑は果物としての基本形(球形)は失っていないから、やはり俗っぽさがあってよくない。色彩に関しても、檸檬の黄色の強烈さには負けている。心を突き動かすという点では、蜜柑は少し弱いか。香りも重量感も檸檬に軍配があがるだろう。手触りだけは、良い勝負だといえるかもしれぬ。

 

 

ここまでで、『檸檬』を名著たらしめているポイントがはっきりと見えてきただろう。檸檬が、強烈な個性(不細工な紡錘形、はげしい酸味)があってあまり好かれない存在であっても、精一杯の自己主張をしている点だ。林檎は完璧すぎたし、葡萄は主張がなさすぎたし、蜜柑も檸檬の個性には敵わなかった。檸檬の泥臭さの中の精一杯の自己主張が胸に響くのだ。

 

以前おしゃれについての文章で、自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れてファッションで自己主張している人は輝いて見えるというのを読んだことがある。その過程で「自分」を見つめ試行錯誤することが人の魅力に繋がるのだとも。

 

つまり、檸檬もそういうことなのだ。形は不恰好だし、酸味が強くて食べれたものじゃないが、鮮やかな色彩と鼻に抜ける香りで必死に主張している様が美しいのだ。果物界では決して主役ではない、スポットライトを浴びる立場にはないけれど、それでも自分らしく輝いている姿か人の心を打つのだ。

 

というわけで最後にあと2つ、檸檬に匹敵する個性を持った果物の挑戦を受けて、このエントリを終わりにしたい。もう少しお付き合い願いたい。

 

 

梶井基次郎『ドリアン』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドリアンが出ていたのだ。

 私はドリアンが好きだ。あのすすにまみれたような淡い色も、それからあの好戦的で刺々しい形も。そのドリアンの手触りはたとえようもなくよかった。手のひらをつんざくような刺激的な触感は快いものだった。ドリアンの強烈な臭味が鼻腔を震わせ、つーんという感じだった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドリアンを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドリアンは周囲のガチャガチャした有象無象を静かに圧するように佇んでいた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドリアンが爆発してあの店が絶望的な臭気に包まれてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

「自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れて自己主張している」、個性のある果物を、とドリアンが選抜された。しかしこれは失敗だったと言わざるを得ない。確かにドリアンは個性が強烈である。臭い。刺々しい。問題は、ドリアンは独特な個性で一点突破していることである。主張が激しすぎて神経衰弱には全然似合わない。

 

例えるなら、ドリアンはジャイアンなのだ。ドリアン=ジャイアン。圧倒的な臭気で回りをうんざりさせる様は、「おっれっはジャイアン♪ガキ大将」のアレと似ている。弱みを弱みとして認識せず、さらけ出しすぎてしまっていることが、ドリアンを檸檬の持つ魅力と大きくかけ離れさせてしまっている。檸檬は、奥ゆかしい。だから良い。ドリアンは力任せが過ぎる。力強すぎてダメだ。

 

檸檬の弱みは、形状と酸味である。檸檬は、ドリアンのようにそれらを無防備にさらけ出すことはしない。ただ、隠しもしない。紡錘形は紡錘形として、ありのままの自然体然としている。酸味は酸味で、匂いという形で強みとして変換をして主張している。まさに、自己を見つめ、弱さを受け入れ、その上で力強く自己実現をしている。檸檬の魅力がまた一段とはっきり見えてきた。

 

 

梶井基次郎『ドラゴンフルーツ』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドラゴンフルーツが出ていたのだ。

 私はドラゴンフルーツが好きだ。あの禍々しい不健康そうな色も、それからあのささくれがめくれたみたいな果皮も。そのドラゴンフルーツの手触りはたとえようもなくよかった。生命の伊吹に満ち満ちたような姿は快いものだった。ドラゴンフルーツのフルーティな香りは「なんくるないさー」というような感傷を引き起こした。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドラゴンフルーツを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドラゴンフルーツは理解を拒むような圧倒的な場違い感を醸し出していた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドラゴンフルーツが爆発してあの店が南国風になってしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

始めに断っておく。私はドラゴンフルーツを食べたことがないし、見たこともない。ならばなぜこんな編を書いてしまったのか? 気づいたら書いていたのだ。分かったことは、「ドラゴンフルーツではダメで、檸檬の方がいい」ということだ。そりゃそうだよな、というほかない。

 

しかし、ドラゴンフルーツを見て衰弱した心が潤う、というのは意外とありそうな話だ、という気もしてきた。ドラゴンフルーツは一目で異国だからである。『檸檬』でも、果実を嗅ぐことでその産地であるカリフォルニヤを想起する描写がある。自らと違う環境に思いを馳せること。これはつまり現実逃避だ。辛い現実から逃れようとすることで少し精神が落ち着くことは有り得るだろう。

 

ただし、実際のドラゴンフルーツにそのような効果があるか私は知らない。見たことがないからである。つまりこの編について私が確実に語りうることはないということだ。ああなんということでしょう。

 

 

結び

代表的な果実を5つ選抜して検討してみたが、やはり『檸檬』を『檸檬』たらしめるのは檸檬檸檬であったからにほかならないと結論できるだろう。林檎や蜜柑なんかでは全然だめなのだ。

 

そして特筆しておくべきは、梶井基次郎の優れた感性であろう。数ある果物の中から、最適な果物である檸檬を選抜した。流石の観察眼であり、稀代の作家として現代でも生き続ける理由の一端が垣間見えた。

 

 

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

 

 

有名な場所に行くな

思考

先日京都は清水寺へ行った。友人の誘いだった。曰く、「舞台からの景色が見たい」とのこと。ぼくはさして見たいとはおもわなかったが、大事な友人であったので、承諾。京阪電車清水五条駅へ向かい、合流した。道すがら蕎麦を食らう。清水寺は坂の上にあり、訪れるには坂を上る必要がある。距離にして東大路通りからだいたい500mほどの坂だっただろうか。

 

さて、清水寺は有名な場所であるが、決して、訪れるべき場所ではない。かの寺は数々の寺社をひっさげる京都でも随一の観光地と言って良いが、その実、なにも面白いところはない。我々も「なんだかな」といった具合で観光を終えたのだった。その日が日曜日だったこともあり、我々の訪れた日も観光客でごった返していたが、その何人が清水の魅力心を奪われていたか、甚だ怪しいとおもう。それも当然で、「有名だからいくか」ぐらいの感覚で観光しているのだから、楽しめるはずもない。実際は「清水の舞台から飛び落りる」という慣用句から知名度が高い、というだけの話である。

 

すなわち彼らは(そして私たちも)、面白くは感じないけど有名だから、清水寺へ観光へ向かったのである。これはばかげている。同時に危険である。この行動には自己がなく、熱情に動かされる人間本来のあり方が欠如しているからだ。人間の行動は自らの意志と個性に基づいているべきであり、集団の観念に影響されるべきでない。こうした行いは働きアリが集団の意志のため無心で労働をするようなもので、文字通り各人の心がないのである。人間らしいとはとても言えない。

 

メディアの発達した現代だから、集団心理は操作しやすくなっている。一部の者たちの意思によって個が操られる時代と言っていい。観光産業とて例外でなく、メディアで名を上げれば人を集めることができる。そして集まる人は、女王アリに指図された働きアリである。メディアで少し話題になったからと群がる人々は滑稽ですらあり、自分の興味で動いたようにおもっていても所詮操られているだけだ。有名になったからと言ってものの本質が変わるはずがないわけで、気づく機会を与えられればたちまち無思慮にとびつくのはいかがなものか。丁寧に自己を見つめ、心からより美しい、よりよい、とおもったものへ向かう人間本来の姿とはかけ離れている。

 

流行が一部の人によってつくられている。こうしたものには、安易に乗ってはいけない。そこに自己意志はない。流行に乗るというのは、自己を殺してつまらない集団に迎合するおろかな行為である。

 

無思慮な観光客が清水寺参道の売店に群がる。人の集まる寺で商売をすれば、儲かるのは自明である。この道沿いの産業を生むための流行に乗ったアリたちに自分自身と呼べるものはなく、流行を形作る集団の無機質な構成員に成り下がっているにすぎない。こうして一個体としての主体は消えていき、自分が見えなくなってしまうのだ。

 

言いたいのは、こうである。「自己が埋没せらるから、有名な場所には行くな。」

 

 

そもそも、清水寺は仏像がよく見えないからだめである。本尊たる千手観音が暗くて奥まったところにあって、目を凝らしても木のカタマリと相違ない。しかもその仏は本尊とそっくり似せてつくったもので、本当の本尊(?)は隠されていて、33年に1度のご開帳らしい。見られて意味があるというのに、ばかげた話である。

 

本当は、こういいたい。「もっとよく、仏像を見せて。」

Twitterに殺される

Twitterっていうのはとんでもないものですね本当。みんなあれ、どんな感じで使ってるの? ぼくにゃ使いこなせる気がしてないし、使いこなしたいともあまり思わない。なんかみんな馴れ合ってる感があるのも一つだし、むき出しの自己啓示欲に面食らっちゃうのもある。


ぼくが今どんな風にあの憎き青い小鳥を使ってるかというと、主に情報収集。好きなミュージシャンとか、芸能人とか、興味関心がある分野の情報通とか、そういう人をフォローしてる。するとまぁタイムライン上に、黙ってても向こうから情報が流れ出てくるわけです。そりゃもう波のように。情報の波です。確かに便利だし、有益な情報も結構あるんだけど、いかんせん多い。「このビックウェーブに乗るぜ」とか言ってる場合じゃない。瞬く間に情報の波に溺てしまう。


「いついつに新曲リリースです」とか、「ナントカっていテレビに出ます」とか「誰々がこんなこと、言ってる」とかそういう情報にぼくは殺される。全て追ってると、脳がパンクしちゃうんですよね。当然ながら自分が全てのツイートに興味を持つわけがない。一瞬にして取捨選択を迫られるわけです。もう、そんなこと、できるわけない!


ぼくは前々からTwitterには否定的だったけど、こんな記事を書くほど決定的だった今朝の出来事について。今朝というかまぁ午前3時とかのことなんだけど、前の晩10時ぐらい? に寝ちゃったぼくは、なんか3時くらいにはたと目が覚めちゃった。最近昼夜逆転気味だったから、眠りが浅かったのかな? とか思って、一旦トイレに立ってから二度寝を試みるんだけど、寝れない。二度寝といわずn度寝大好きマン(nは任意の自然数)のはずのぼくなんだけど、かなりパッチリ目が開いちゃってて、「あ、これ絶対寝れないやつだ」と気づいた。

それでも悪あがきというか、暫く目を瞑ってると、確実に起きてはいるんだけど、脳の一部がまだ眠りの途中にいて、せっせと情報処理してる感覚に陥る。寝てる時間って、起きてる間に見たこと考えたことを整理する時間で、その過程で寝る前のこととか最近気になってることとかがおかしな夢になったりするんだけど、その整理の時間がまだ脳内で続いてるような感覚ね。

そういう時の思考スピードって、本当に速い。中国の故事でも目覚めの瞬間はいい考えが浮かびやすいって言うらしいけど、本当その通り。しかもその時って目覚めてはいるから割と自由に思考を巡らすことができる。平常時にはありえない速度で。まさにチート。期間限定の強化アイテムを期間外でも使っちゃう垢BANされてもおかしくない裏技。その瞬間の思考は格別で大事にしないといけない。幸い神様は垢BANせずに見逃してくれるから。

ただ欠点が一つあって、思考の内容をとっても忘れやすい。見た夢をすぐ忘れちゃうのと一緒で、眠気まなこで考えたことは結構すぐ忘れちゃう。だから起床直後の大事な思考は書き留めるが吉。チートアイテムはちゃんと保管しとこう。


で、話を戻すけど、Twitterね。あの情報を凶器に人を殺しまくる凶悪サービス、あれを、何を思ったかふとそんな午前3時にぼくは見てしまった。近くにスマホを置いてしまっていたのが悪かった。その瞬間、ぼくは情報の波に飲み込まれた。愛しい脳内が情報で埋め尽くされ、少なくともぼくにとってとっても貴重な思考が一瞬で流された。

「やっちまった」と思った。思考が、フォローしているアイドルのぜんぜん面白くないツイートに飲み込まれ、儚く散った。それがありありと分かった。あぁ、結構ビビッと来てたのにな……。良いアイデア浮かんでたはずなのに…….、ぼくはTwitterを憎んだ。クソ、この青い小鳥め……と思いTwitterを閉じると同時に、これは青い鳥ではなく青地に白の鳥だと気付き、とっても腹立たしかった。


とまぁ、こんな感じで、Twitterによる情報レイプを受けた。これは寝起きという特殊な状況だったんだけど、多分起きてる時にもおんなじことは起こってて、色々と頭の中で思考を巡らしている時、余計な情報が邪魔になってることってあるんだよね。案外無意識だったりするけど。多量の情報に脳がキャパオーバーしちゃって、それ以上考えられなくなる。だから情報は取捨選択しないといけないわけだけど、情報を見た瞬間に脳は勝手に処理を始めちゃうから、そもそも情報を見ないようにして脳を休めてあげる必要がある。


情報化社会は一見便利だけど、依存しすぎると思考が侵食されてしまう。脳のキャパを意識して、思考を十分巡らせるために、情報との付き合い方は考えないといけない。適度に、適度に。そんなことを思って、Twitter、ひいてはインターネットの使い方について思いを馳せたのでした。おわり

万城目学 - 『鹿男あをによし』を読んだ

鹿男あをによし』、面白すぎた。ちょっと今衝撃を受けてる。いやまぁぼくはそんなに小説は読まないからちょっと面白ければ結構簡単に衝撃を受けちゃうんだけど、それでもこの作品は格別でした。作者は万城目学京都大学卒。だから気になってて、手にとってみた。同じ京大卒の作家森見登美彦が好きだからね。



この作品の何が面白いって、構成の緻密さと展開の仕方。京大卒だし、森見登美彦と同じで、文体と奇天烈頓狂さで楽しませるのかと思ってたけど、ちがった。話が練りに練られてるし、所々で話の謎がうまく提示されてるし、節々でヒントが示されてて、手がかりがあって、なんとなくこんな感じで決するんだろうな〜とボンヤリ考えられるけど、決定的なとこがかけてたりとか、一部うまく繋がらないとこがあったりとかして、解決の糸口はたくさん見えて、糸先もチョロっと見えるけど、途中でほつれにほつれててよく分かんないみたいな。そんな感じだから先が気になるし、ページを繰る手が止まらない。しかも最後の解決が綺麗だから、とってもカタストロフィ。いやぁ、久々にテンション上がりましたねぇ。


鹿男あをによし』は登場人物がみんな魅力的。いい小説はどれもそうだけど、実際にいそうで、でもそうそういなくて、本当にいたら絶対に愛せる、そんな人ばかりが登場する。みーんな実直で、人間らしい。描き方がうまいから、想像するのが容易。読者がその人をイメージができて「ああ、こんな人いるよね。うんうん」ってなるけど、実際のところそんな人は滅多にいない。絶妙なラインでキャラ付けがされてて、この作者は人間のことをよく知ってて、人間の営みが大好きで、いろんな人と交わってきたんだろうなと思った。ぼくも人間が好きになった。

そうはいっても、作家にとって、愛すべき登場人物人物を置くことは実は簡単なのかもしれない。だってプロだもん。でも、この物語のスゴイところは、愛すべき登場人物が、みんな物語のなかで役割を果たしているところ。一人一人が物語の駒となって、話を動かす歯車になってるんだけど、作者によって役割を与えられてる感じは全くしない。自然で魅力的な人間が、自然な流れで、いとをかしき物語を作っている。こういう作品は面白い。


最後の面白ポイント。『鹿男あをによし』、舞台の中心は奈良で、色んな寺や神社、古墳、それにまつわる歴史と神秘が描かれるんだけど、そういう要素が、単なる物語の要素にとどまっていない。作品の素材として取材して調査して表現されたんじゃなくて、作者の万城目学は歴史やオカルトが本当に好きで描いたんだろうなと思った。作品に愛がこもっていて、だから物語が躍動する。これは作者の人間愛にも通じるところだろうな、と思う。


本当に魅力あふれるお話で、これから万城目ワールドをどんどん掘っていこうと思いました。おわり

ジャミロクワイの空間支配力について

音楽 思考

ジャミロクワイというミュージシャンが居る。「5つ食べられるかい」の人である。

(参考↓)


日清 カップヌードル Jamiroquai 編 .flv

 

当エントリは、「カップヌードルを5つ食べられるか。」この問いに関する考察を行う。わけではない。違う。「味を変えつつならいけそう」とか、そういうことは書かない。カップヌードルをご所望の食いしん坊の読者諸君はお帰りいただきたい。

 

 

まず、ジャミロクワイは単なるカップヌードルの広告塔などではなく、世界的な人気ミュージシャンであり、「4つでギブのやつもうグッバイ」でブレイクした大人気バンド・サチモスにも大きな影響を与えたほどのバンドである。

(参考↓)


Jamiroquai - Space Cowboy

 


Suchmos "STAY TUNE" (Official Music Video)

 

 

ジャミロクワイの音楽を一言で表すなら「オシャレ」これに尽きる。途方もないオシャレ。それはもう、彼らの楽曲を聴くことで私自身がとってもオシャレな人だという気持ちになってくるほど。そんなはずはないのに。鼻に置くとこの曲がっためがねをかけて阿呆面をしているというのに。冬場は謎トレーナーしか着ないというのに。

 

実際、ロクワイの手にかかれば、行われるあらゆる動作がオシャレなものとなる。例えば、その右手で右の鼻穴をほじってみよ。とってもお下品なはずの行為。人に見られればたちまち嫌悪感で顔をしかめられるはずの行為。ところが、ロクワイの音楽さえあれば、とてもスタイリッシュで、ソフィスティケイティットでグレースフルな挙措に思えてくるであろう。これが、これこそが、ジャミロクワイの持つ恐るべき力の効能である。

 

聞く者へ働きかけ、さも自分がオシャレであるかのように感じさせてしまうジャミロクワイだが、ここで場の理論を援用する(参考→)。すなわち、対象へ働きかける力を持つものは、対象へ直接影響を与えているのでなく、周りの場を変容させることを通して対象へ働きかけているとしよう。ジャミロクワイが、部屋を、空間を、支配しているのである。スピーカーから流れ出るロクワイによって、この部屋のあらゆるものが、オシャレになる。「Everything is good...」ロクワイもそう言っている。私が鼻をかんだちり紙(元来とても汚い)だって。なにかとても、意味のある、ファッショナブルなものに見えてくるだろう。それだけではない。ジャミロクワイは空間を支配しているのだ。この7帖ちょっとにある全てのものが、支配されているのだ。歯ブラシが、コースターが、つい台湾で買ってしまった像笛が、電子辞書が、めがね拭きが、謎トレーナーが、さとうのご飯が、使い古し床に捨てられたままの乾電池が、その横のちじれた毛が、少し大きなホコリが、チリが、ブラジルが! ジャミロクワイの音楽の力で! とても!オシャレに!見えてくる!!!

 

 

と思い込むだけで、世界が素晴らしいものに感じられる。

私が言いたいのはそういうことです。

【仏像】千手観音への愛を語る

仏像

今の私のイチオシ仏像である千手観音。皆さんも聞いたことあるし、修学旅行なんかで見たことがある人も多いのではないだろうか。

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↑千手観音

 

この仏像の何が良いって、それはもちろん手が千本あるところ。実際の仏像では簡略化されて40本くらい?しかないみたいですが、それでも圧巻。圧巻? いや、なんかもう、むしろみてると笑っちゃうのです。だって、手がこんなにたくさんある……もう、「馬鹿じゃん」という感じになる。「手は、2本でしょ……。」という感じになる。むかしの仏師、何をおもってこんなの作ったの? 「手がたくさんあったらかっこよくね?」とかそんな感じ? 考え方が小学生と同じではないか。

 

しかも、実際に千本の手をもつ仏像が作られた例もあるらしい。ここまでくると本当の阿呆ではないだろうか。「あいつがさ、千手観音作ったっていうから見に行ってみたの。そしたら、手が、40本しかないの!! でさ、『なんで40本しかないの?』って聞いたら、『だって千本も作れないでしょ』って言ってやんの。それじゃ千手観音じゃないじゃん。って。言ってやったよ。ホント、あいつも落ちたもんだな。まったく。俺? 俺は、千本作りきってやるよ。」とか、そういう人がいたんでしょう。もう、何が彼をそこまで駆り立てるのか、手が千本あるからなんだというのか。少し熱すぎやしないか。どうして実際に作ってしまうのか。仏師の心意気がいとしい。私はマジのガチで手が千本ある仏像を見たことはないが、生で見るとそれはそれは圧巻……いや、阿呆らしく感じるのだろう、と想像する。

 

「手が千本あればかっこいいとおもってんだろ」「考え方が小学生と同じ」「馬鹿じゃん」などとのたまってしまったが、それだけではあんまりなので実際の千手観音の着想を紐解いてみよう。まず、腕が2本の正常な仏像について考える。彼らは、ふつう手に物を持っている。例えば薬師如来像は薬の入ったつぼを持っていて、これは病気の治癒にご利益があるとされる。他には毘沙門天は宝塔と呼ばれるちいさな塔を持っていて、富を与えてくれることを意味している。このように、手に持っている事物が私たちへのご利益を象徴しており、仏像はその手に持っているものこそが重要なのである。

 

するとだ。腕が2本だと、持てるものも最大で2つになってしまう。薬師如来はせいぜい病気を治すことしかできないし、毘沙門天は逆の手に武器を持っていて災難を退ける力も持っているとはいえ、富の享受とあわせても二つのことしか手に負えない。こうした事実を知れば、私たちも千手観音の誕生の由来が理解できるだろう。手が二つ……ご利益も二つしか与えてくれない……だったら……ハッ!

 

””手が千本あれば!!””

 

 

とんだ阿呆である。「手を、千本作って、千個、物を持たせれば、メッチャ、ご利益あるやん?」 あらためて、発想が小学生と同じである。

 

私はまだ鼻水を自分で拭くこともできないガキだったころ、寝る前によくある妄想をしていた。それは「おっぱいが非常にたくさんある女性」についてである。突然何を言い出すとおもわれるかもしれないが、聞いて欲しい。何を隠そう、私はおっぱいが好きであった(今も好きである)。しかし、悲しいかな、おっぱいは二つしかない。もっと、もっとおっぱいを味わいたい……二つじゃ物足りない……。そうおもった私は、おっぱいが非常にたくさんある女性を夢想した。このことで、一対のおっぱいがもたらす興奮度を何十倍にも増大させることに成功した。

 

この「おっぱいが非常にたくさんある女性」。ふざけた空想だとおもうかもしれない。しかしこれは、千手観音を生んだ古の仏教徒と全く同じ発想から生まれたものである。全く同じ。たくさんあれば、良い。効能が、上がる。馬鹿にすることなかれ。あの千手観音と同じなのだ。「おっぱいが非常にたくさんある女性」は千手観音と同じなのだ。

 

ところで、千手観音像には国宝に認定されていているものがたくさんある。清水寺の千手観音は堂の奥の方にたいそう大切に安置されている。奈良国立博物館では、たいへん貴重なものとして千手観音像がガラス板の向こうに展示されている。

 

これらの事実が教えてくれる。今から千年後、「おっぱいが非常にたくさんある女性」が国宝に認定されている未来を。「おっぱいが非常にたくさんある女性」がありがた~く民衆に拝み奉られている未来を。

 

……仏罰を喰らいそうなので、このへんで。

『受験』というコンテンツを楽しんでいただけだったと気づいた

思考

どうもこんにちは。大学生です。

 

私は入試を終えて1年が経ち、大学生活の要領も分かってきたところ。この時期おそらく多くの人が「なんで大学に入ったんだろう」とか「大学に行く意味あるのかな」とかおもって悩んじゃうのではないでしょうか。私の周りにもそういう人は多いし、私もそんなことをおもうことがままある。この悩み、結構ツラい。解決されないと4年間悩み続けることになり得るし、あんなに受験勉強をがんばったのにその意義を改めて問い質すのはけっこうきつい。

 

でもそうやって悩むのは当然のはなしで、だって大学にいって何を学んでるかってそんな大した事は学んでいないわけで。講義があるっちゃあるけど、正直つまらんし、ほとんどの時間でスマホいじってる。ていうか講義とか行かない。めんどくさいし。そんな学生ばっかでしょ? 挙句の果てに授業よりバイトの方が楽しいとか言っちゃう。じゃあ退学して働こうぜ。

 

だけど思い返してみてください。そんな腐れ大学生も高校生のときは華の大学生活を夢見てせっせと受験勉強に明け暮れていたわけでしょう。おいらは弁護士になりたい!だから○○大学の法学部に入るんや! 私は看護師になりたい!だから○○大学の看護学科に入るんや! E判定しかでないけど、がんばるんや! 絶対受かるんや! みたいな。あのエネルギーどこにいったよ。

 

そういう当時のことを思い起こして感じるのは、志望大学とか進路とかいうのは自分で考えたようで結局は回りに流されて決めただけのものでしかなくて、「なーんか高3になったし受験校を決めなきゃいけないらしいからよくわかんねーけど宇宙とかかっこいいし工学部入ってロケットでも作んべ^q^」みたいな軽いノリで決めたものしかなかったということ。

当時は、みんな、人生の重大ターニングポイントかのように考えに考えてるつもりでもね、そうじゃないんですよね。残念ながら、進路で悩んでいる学生は、「周りを見てると、どうやら進路について悩まなきゃいけないっぽいし、先生もそう言ってる」から悩んでいるというだけの話で、心の底から自分がこれからどう生きたいかなんて考えていやしないんです。

 

 

私自身の話をすると、自分はそれなりの進学校でレベルの高い授業を受けて、あくせく受験に向かって挑んでいました。進路もそれなりに(?)悩んで決めて、目標のために一生懸命で、まあまあ全力を出していたとおもいます。しかしそれは結局のところ、「志望校を決める→合格のために勉強する(この過程で友人・家族・先生との関係等において様々なイベントが発生し、おもしろい)→晴れて合格する」という一連のゲームを楽しんでいただけの話で、そこに実体はない。ことに今、大学生になってから気づいた。晴れて大学に合格して自分がやりたいとおもっていたことや学びたいとおもっていたことができるようになったのに、なーんか身が入らなくて「なんで大学に入ったんだ??」とか考えちゃうのはこのせいなんだ。実際大学に入りたいとはおもってなくて、受験という一連のシナリオを楽しんでいただけなんだ。

 

これは一種の「青春の幻覚」と言えるかもしれない。「大学合格に向けて、一致団結して精一杯やってやろうぜ!」 「桜咲かせようぜ!」 「皆合格して笑い合おうぜ!」とか言って、なんてことはない。皆そういう雰囲気に踊らされているだけだ。「受験は団体戦」とかいって私たちを煽っていた教師のことを私は忘れない。団体戦のはずがないでしょうが。カンニングでタイーホです!!(参考→

 

いわば、『受験』というコンテンツを楽しんでいただけ。「アニリンを!ジアゾ化して!!!””p-ヒドロキシアゾベンゼン!!””」とか、当時は楽しかったけど、終わってみればそれだけ。連続性はないから、大学に合格すればおしまいのゲーム。大学に入ってから「大学に来る意味あったのかな」とか考えて虚無感を持っちゃダメ。私たちは『受験』を楽しんでいただけだから。受かって、お世話になった人に報告して、おめでとうって言ってもらって、達成感を得て、完結なんだよ。

 

人生はそういうものの連続だからこれはある意味健全だけど、勘違いしちゃいけないね、というお話でした。