竹林の屋敷

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【仏像】千手観音への愛を語る

今の私のイチオシ仏像である千手観音。皆さんも聞いたことあるし、修学旅行なんかで見たことがある人も多いのではないだろうか。

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↑千手観音

 

この仏像の何が良いって、それはもちろん手が千本あるところ。実際の仏像では簡略化されて40本くらい?しかないみたいですが、それでも圧巻。圧巻? いや、なんかもう、むしろみてると笑っちゃうのです。だって、手がこんなにたくさんある……もう、「馬鹿じゃん」という感じになる。「手は、2本でしょ……。」という感じになる。むかしの仏師、何をおもってこんなの作ったの? 「手がたくさんあったらかっこよくね?」とかそんな感じ? 考え方が小学生と同じではないか。

 

しかも、実際に千本の手をもつ仏像が作られた例もあるらしい。ここまでくると本当の阿呆ではないだろうか。「あいつがさ、千手観音作ったっていうから見に行ってみたの。そしたら、手が、40本しかないの!! でさ、『なんで40本しかないの?』って聞いたら、『だって千本も作れないでしょ』って言ってやんの。それじゃ千手観音じゃないじゃん。って。言ってやったよ。ホント、あいつも落ちたもんだな。まったく。俺? 俺は、千本作りきってやるよ。」とか、そういう人がいたんでしょう。もう、何が彼をそこまで駆り立てるのか、手が千本あるからなんだというのか。少し熱すぎやしないか。どうして実際に作ってしまうのか。仏師の心意気がいとしい。私はマジのガチで手が千本ある仏像を見たことはないが、生で見るとそれはそれは圧巻……いや、阿呆らしく感じるのだろう、と想像する。

 

「手が千本あればかっこいいとおもってんだろ」「考え方が小学生と同じ」「馬鹿じゃん」などとのたまってしまったが、それだけではあんまりなので実際の千手観音の着想を紐解いてみよう。まず、腕が2本の正常な仏像について考える。彼らは、ふつう手に物を持っている。例えば薬師如来像は薬の入ったつぼを持っていて、これは病気の治癒にご利益があるとされる。他には毘沙門天は宝塔と呼ばれるちいさな塔を持っていて、富を与えてくれることを意味している。このように、手に持っている事物が私たちへのご利益を象徴しており、仏像はその手に持っているものこそが重要なのである。

 

するとだ。腕が2本だと、持てるものも最大で2つになってしまう。薬師如来はせいぜい病気を治すことしかできないし、毘沙門天は逆の手に武器を持っていて災難を退ける力も持っているとはいえ、富の享受とあわせても二つのことしか手に負えない。こうした事実を知れば、私たちも千手観音の誕生の由来が理解できるだろう。手が二つ……ご利益も二つしか与えてくれない……だったら……ハッ!

 

””手が千本あれば!!””

 

 

とんだ阿呆である。「手を、千本作って、千個、物を持たせれば、メッチャ、ご利益あるやん?」 あらためて、発想が小学生と同じである。

 

私はまだ鼻水を自分で拭くこともできないガキだったころ、寝る前によくある妄想をしていた。それは「おっぱいが非常にたくさんある女性」についてである。突然何を言い出すとおもわれるかもしれないが、聞いて欲しい。何を隠そう、私はおっぱいが好きであった(今も好きである)。しかし、悲しいかな、おっぱいは二つしかない。もっと、もっとおっぱいを味わいたい……二つじゃ物足りない……。そうおもった私は、おっぱいが非常にたくさんある女性を夢想した。このことで、一対のおっぱいがもたらす興奮度を何十倍にも増大させることに成功した。

 

この「おっぱいが非常にたくさんある女性」。ふざけた空想だとおもうかもしれない。しかしこれは、千手観音を生んだ古の仏教徒と全く同じ発想から生まれたものである。全く同じ。たくさんあれば、良い。効能が、上がる。馬鹿にすることなかれ。あの千手観音と同じなのだ。「おっぱいが非常にたくさんある女性」は千手観音と同じなのだ。

 

ところで、千手観音像には国宝に認定されていているものがたくさんある。清水寺の千手観音は堂の奥の方にたいそう大切に安置されている。奈良国立博物館では、たいへん貴重なものとして千手観音像がガラス板の向こうに展示されている。

 

これらの事実が教えてくれる。今から千年後、「おっぱいが非常にたくさんある女性」が国宝に認定されている未来を。「おっぱいが非常にたくさんある女性」がありがた~く民衆に拝み奉られている未来を。

 

……仏罰を喰らいそうなので、このへんで。

『受験』というコンテンツを楽しんでいただけだったと気づいた

どうもこんにちは。大学生です。

 

私は入試を終えて1年が経ち、大学生活の要領も分かってきたところ。この時期おそらく多くの人が「なんで大学に入ったんだろう」とか「大学に行く意味あるのかな」とかおもって悩んじゃうのではないでしょうか。私の周りにもそういう人は多いし、私もそんなことをおもうことがままある。この悩み、結構ツラい。解決されないと4年間悩み続けることになり得るし、あんなに受験勉強をがんばったのにその意義を改めて問い質すのはけっこうきつい。

 

でもそうやって悩むのは当然のはなしで、だって大学にいって何を学んでるかってそんな大した事は学んでいないわけで。講義があるっちゃあるけど、正直つまらんし、ほとんどの時間でスマホいじってる。ていうか講義とか行かない。めんどくさいし。そんな学生ばっかでしょ? 挙句の果てに授業よりバイトの方が楽しいとか言っちゃう。じゃあ退学して働こうぜ。

 

だけど思い返してみてください。そんな腐れ大学生も高校生のときは華の大学生活を夢見てせっせと受験勉強に明け暮れていたわけでしょう。おいらは弁護士になりたい!だから○○大学の法学部に入るんや! 私は看護師になりたい!だから○○大学の看護学科に入るんや! E判定しかでないけど、がんばるんや! 絶対受かるんや! みたいな。あのエネルギーどこにいったよ。

 

そういう当時のことを思い起こして感じるのは、志望大学とか進路とかいうのは自分で考えたようで結局は回りに流されて決めただけのものでしかなくて、「なーんか高3になったし受験校を決めなきゃいけないらしいからよくわかんねーけど宇宙とかかっこいいし工学部入ってロケットでも作んべ^q^」みたいな軽いノリで決めたものしかなかったということ。

当時は、みんな、人生の重大ターニングポイントかのように考えに考えてるつもりでもね、そうじゃないんですよね。残念ながら、進路で悩んでいる学生は、「周りを見てると、どうやら進路について悩まなきゃいけないっぽいし、先生もそう言ってる」から悩んでいるというだけの話で、心の底から自分がこれからどう生きたいかなんて考えていやしないんです。

 

 

私自身の話をすると、自分はそれなりの進学校でレベルの高い授業を受けて、あくせく受験に向かって挑んでいました。進路もそれなりに(?)悩んで決めて、目標のために一生懸命で、まあまあ全力を出していたとおもいます。しかしそれは結局のところ、「志望校を決める→合格のために勉強する(この過程で友人・家族・先生との関係等において様々なイベントが発生し、おもしろい)→晴れて合格する」という一連のゲームを楽しんでいただけの話で、そこに実体はない。ことに今、大学生になってから気づいた。晴れて大学に合格して自分がやりたいとおもっていたことや学びたいとおもっていたことができるようになったのに、なーんか身が入らなくて「なんで大学に入ったんだ??」とか考えちゃうのはこのせいなんだ。実際大学に入りたいとはおもってなくて、受験という一連のシナリオを楽しんでいただけなんだ。

 

これは一種の「青春の幻覚」と言えるかもしれない。「大学合格に向けて、一致団結して精一杯やってやろうぜ!」 「桜咲かせようぜ!」 「皆合格して笑い合おうぜ!」とか言って、なんてことはない。皆そういう雰囲気に踊らされているだけだ。「受験は団体戦」とかいって私たちを煽っていた教師のことを私は忘れない。団体戦のはずがないでしょうが。カンニングでタイーホです!!(参考→

 

いわば、『受験』というコンテンツを楽しんでいただけ。「アニリンを!ジアゾ化して!!!””p-ヒドロキシアゾベンゼン!!””」とか、当時は楽しかったけど、終わってみればそれだけ。連続性はないから、大学に合格すればおしまいのゲーム。大学に入ってから「大学に来る意味あったのかな」とか考えて虚無感を持っちゃダメ。私たちは『受験』を楽しんでいただけだから。受かって、お世話になった人に報告して、おめでとうって言ってもらって、達成感を得て、完結なんだよ。

 

人生はそういうものの連続だからこれはある意味健全だけど、勘違いしちゃいけないね、というお話でした。

【歌詞解釈】BUMP OF CHICKEN-ロストマンは人生の中での決断を歌った唄だと思う

君を忘れたこの世界を 愛せた時は会いに行くよ 

 

歌詞はコチラを参照→http://j-lyric.net/artist/a000673/l001cf1.html

***

 

まずは楽曲紹介。

 

ロストマン』はBUMP OF CHICKENの6枚目のシングル。ボーカルギターの藤原基央が作詞に9ヶ月かけたという伝説的な楽曲であります。

 

それだけ時間をかけたとあって、まず曲からかもし出される雰囲気がすごい。尋常じゃない、「心の奥底の闇」のオーラがバンバン出ています。それなりに流通している邦楽でこれだけの深みを出す歌を私は知りません。

 

ちなみに音楽的にも、ツインドラムを導入するなどの意欲的な試み、内省的な歌詞にマッチした枯れたサウンドのギターと、特筆すべき点は多いでしょう。

 

***

 

ロストマン』は自分の夢を目的地とする地図の上、人生という旅をする僕は、決断という別れ道で君と決別する。本当に夢が叶うのかと迷子(ロストマン)になりつつも歩み続ける。そういう唄です。

 

「君を失った この世界」、「状況はどうだい 居ない君に尋ねる」、「強く手を振って 君の背中にサヨナラを 叫んだよ」等のフレーズから、『ロストマン』は2人の人物の別れの唄であることは確かでしょう。

 

ついで、「僕」は今の人生を生きる自分、「君」は今と異なる道を歩む「自分」として歌われていることを確認したいと思います。

すなわち、

 

強く手を振って 君の背中に
サヨナラを 叫んだよ
そして現在地 夢の設計図
開く時は どんな顔 

 

これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける 

 

と、「僕」が「自分で望んで」、「君」と別れることを決断した。そして、自分の将来、ひいては「今」を生きていくことが歌われているわけです。「夢の設計図」を開く僕は、「夢」を追うために必要となる決断、たとえば、ミュージシャンになるために高校を中退する とか地元を離れて単身上京する とかをします。もう一人の僕である「君」が高校に通ったり地元で暮らしたりする道を歩んでいる中、「僕」は夢を追う道を歩むわけです。こうした決断の積み重ねが人生なのだと言えるでしょう。

もう一つ言うと、たびたび私たちは「君」サイドの自分を羨ましく思ったりしてしまいます。辛い、苦しい人生の中で、あのときあっちの道にいっとけばなぁ……、と。

 

 

しかしながら、

 

これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける
不器用な 旅路の果てに 正しさを祈りながら 

 

の歌詞のように、こうした決断の先の世界、自分の有様は、全て「僕の望んだ」ものなんです。なぜなら、自分が決めたからです。

 

どんなに辛いことがあっても、苦しくても、何度も何度も失敗しても、夢破れても、自分の責任なのです。「僕の望んだ」ものなのです。この事実は、なんて残酷なのでしょうか? 「自分で選んできたのに 選ばされたと思いたい」(BUMP OF CHICKEN-(please)forgive」から)、そんな私たちですが、全ては私たちの望んだことなんです。

 

この苦しさからの解放は、「祈り」に託されます。不器用で間違っているかもしれない人生に、「正しさ」という曖昧で定義のできない類の概念で救いを求めます。

 

ここで「僕」は、「信じる」のではなく、「祈る」のです。決断の正しさを「信じる」ことも我々には難しいのです。「信じる」という行為を行っている時点で、私たちは「疑っている」からです。 100%の信念が存在するというなら、それは信念の対象はもはや事実であり、信じる事など必要になりません。我々がなにかを信じるときは、必ず、信じながらも、疑っています。

 

その疑いこそが、決断が間違いだったのかもしれないと私たちに思わせます。将来の自分の成功像を強く信じれば信じるほど、失敗が頭をよぎります。こうした心中の渦巻きから「僕」はどうしても祈らざるを得ないのです。もはや、何者かへのお願いです。

 

つづいで、

 

僕らが 丁寧に切り取った
その絵の 名前は 思い出 

 

からについて。「僕ら」とは、「僕」と「君」の2人のことでしょう。今の道を歩むことを決めた「僕」。そして、別の道を歩んでいる「僕」。『ロストマン』のタイトル案に『シザースソング』があったことから、「切り取った」はかなり重要なワードだと思われます。「切り取」るとはおそらく「決断」のこと。決めて、絶つ(切り取る)のでしょう。それも、丁寧に。それはきっと、考えて考えて決断を下したことをいっているのかなと思います。以上から、二人が切り取った「その絵」とは、決断の瞬間のことであり、「あの日」のことでしょう。決断の瞬間は、「思い出」でしかなくて、時間はそこから「止まったまま」で、選ばれなかった「君」は「サヨナラ」を告げるべきものなんです。

 

破り損なった 手造りの地図
シルシを付ける 現在地
ここが出発点 踏み出す足は
いつだって 始めの一歩

 

過去にうじうじせずに、ここ=現在を出発点として前に向かっていく。そんな唄だと思います。

 

 

と、最後に。基本的にはこれまで書いた通りなんですが、記事の冒頭に載せたフレーズ

 

君を忘れたこの世界を 愛せた時は会いに行くよ 

 

 が、本当によく、大きな決断のあとの人生を表しているなぁと思います。「僕」と「君」の道は2つに別れてしまったけれど、彼らの人生はまたどこかで合流するんだと歌われます。

今は、別の道を歩んでいる「君」のことは忘れて、突き進んでいるけれど、いつか、心の底から「あの決断をしてよかった」と、自分の望んだ世界を「愛せた時」、2人は巡り合って、「切り取ったその絵」を直視して、「君」が歩んでいたんであろう人生を思います。その上で今の人生に完全な納得をして、「僕」と「君」は一つとなり、自己、それから人生というものが形成されていくのだと思います。

 

結婚式に新郎新婦の生涯をまとめたビデオを上映するのとかはそんな感じだと思います。結婚という一つの幸せや「正しさ」に辿り着いて、今までの人生すなわち決断の積み重ねを振り返り、選ばれなかったサイドの僕つまり「君」とまた出会うのでしょう。

 

ミュージシャンなら武道館ライブの時とかでしょうか。簡単に言うと、夢を成し遂げて、過去を振り返る。ってことですね。

 

 

間違った旅路を、祈りながら私たちは進みます。

 

**

 

ロストマン/sailing day

ロストマン/sailing day

 

 

 

yのキーの反応が悪いのですが、「梅の設計図(夢の設計図)」とか「梅を追う(夢を追う)」とかなって面白かったです。おわり

【歌詞解釈】『宝石になった日』-BUMP OF CHICKEN は死別の唄だと思う

増えていく 君の知らない世界 増えていく 君を知らない世界
君の知っている僕は 会いたいよ 

歌詞はコチラを参照→http://j-lyric.net/artist/a000673/l0396dd.html

***

 

まずは楽曲紹介。

 

『宝石になった日』はBUMP OF CHICKENの8枚目のアルバム『Butterflies』収録の楽曲。シングルカットはされていませんが、PVが作られています。Youtubeでも視聴化。

 

全編通して一定のコード進行でクリーンギターのアルペジオが鳴っているシンプルな構成。近年のBUMPに見られるキラキラの曲調という印象です。

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『宝石になった日』は死別の唄です。少なくとも私にとっては、疑う余地もなく。筆者の人生経験を持ってすれば、それ以外の読み方はできません。「ライブの日のこと」とか、ダメです。多様な解釈可能性が藤原基央の詞の魅力の一つですが、それだけはダメです。浅いですよ!!

 

まず、「宝石」とはなんでしょうか?

 

 「あの温もりが 何度も聴いた声が 君がいた事が 宝石」と唄っています。

 

作詞の藤原基央は「君」を多用します。「僕」と「君」だけを20年歌ってきたといっても過言ではありません。

 

しばしば、「君」は「もう一人の僕」や「理想の自分」として唄われますが、「あの温もり」、「何度も聴いた声」を感じ、聞いていることから、ここでの「君」は明らかに別個体として捉えるのが妥当かと思います。

 

そして、君が「いた」事が、宝石となった。死かどうかはともかくともして、君との別れを余儀なくされ、君との思い出が、忘れられない、確固としたものとして、刻まれたのです。

 

宝石は美しく、その形を長く留めます。他者とのかけがえのない思い出の形容として、これ以上なく適当に思われます。特に、宝石は、色あせず、確定不変です。単なる「別れ」なら、思い出は更新され得ります。偶然の再会があるかもしれないし、どこかで噂を聞くかもしれない。しかし、死別したものとの別れは、一生新しくならない。死はものの時間を止めるからです。

 

死別の唄だと思う根拠の一つは宝石という形容にあります。宝石って、なんだか秘めるものがないですか? いろんないろ~んな全てがギュっと収まったような……。角度によって輝き方が変わるとことか、単一的じゃない、次元の入り乱れた思い出が宿っているように思います。

***

 

そして、この曲には、死を体験した時の感情、心の流れがありありと描かれています。大切な人の死を経験したことのある方は、共感していただけると思います。

 

一つは、別れの後の虚無感と、時間においていかれる感覚。歩を進めることができず、時の流れの上に乗って無理やり進まされているような感覚です。徒歩や自転車で確実の進んでいくのでなく、電車やバスに乗って、「自分は止まっている。でも確かに進んでる」と感じる時と似ています。BUMPの曲では「銀河鉄道」で唄われています。

 

あとどれくらいしたら普通に戻るんだろう
時計の音に運ばれていく

 

 太陽は何も知らない顔 完璧な朝を連れてくる

 

全自動で続く日常をなんとなく でも止めないよ 

 

ここで唄われるのは、「異常」です。その中で、「どれくらいしたら普通に戻るんだろう」と思います。でも、同時に「日常」でもあります。BUMP OF CHICKENの『トーチ』でいう、「次々襲い来る普通の日々」。心にぽっかりと穴が開いて、もう進めないと思ってしまっても、どんなに大きな絶望が圧し掛かっても、日常は全自動ですすんで、朝がやってくる。とんでもなく大きな虚無感を感じる異常の中でも、強制的に日常を進まされる感覚が唄われます。

 

もう一つ。辛い辛い別れは、とんでもない寂しさを残しますが、実際のところ、私たちはしばらくすれば「普通」に戻ってしまいます。「あの寂しさはなんだったのか」と思うほど、(少なくとも表面上は)忘れたように生きていきます。さらに時が進むと、やがて、別れた大切な人の記憶が薄れていってします。

 

私も経験しました。私の場合は、悲しくなりました。「自分の寂しさはこんなものだったのか?」「あの人のことを本当に大切に思っていたのだろうか?」「もっと寂しく思わなければいけないんじゃないのか?」と。普通の日々を送ることに罪悪感を覚えます。

 

『宝石になった日』ではその気持ちも解決して、前に進もうとします。

 

忘れたように 笑っていても 涙越えても ずっと夢に見る

 

こんなに寂しいから 大丈夫だと思う
時間に負けない 寂しさがあるから 

 

瞬きの中 消えた稲妻 雨が流した 君の足跡
瞬きの中 掌の下 言葉の隙間 残る君の足跡 

 

忘れたように、生きていく自分。時間と共に薄れていく記憶、思い出。「君は夜の空を切り裂いて 僕を照らし出した稲妻」として唄われた愛しい稲妻は、消えてしまい、「君の足跡」は流れていってしまいます。

 

それでも、それでも、こんなに寂しく思っている自分がいる。涙を流すことも少なくなったけれど、いつまでも夢に見る。寂しさは時間に負けず続いている。「君の足跡」はいつまでも、確かに残っているんだ。そう唄います。力強いです。特に、「こんなに寂しいから 大丈夫だと思う」、この歌詞が大好きです。寂しさを正の方向に捉えています。こんなに寂しく思えるような人がいたのだから、自分は大丈夫だ、と。

***

 

最後に、記事のはじめに載せた歌詞、

 

増えていく 君の知らない世界 増えていく 君を知らない世界
君の知っている僕は 会いたいよ 

 

について。BUMP以外にも日本語詞の曲を色々聞いてきましたが、最も天才的だと思う歌詞の一つです。

 

「増えていく 君の知らない世界」。君がもうこの世にいないことを、こうも表現できるのかと思いました。時の流れと共に、世界が変わってゆき、君がこの世界から離れていく様が描かれます。「世界」は、そこに存在する自分を意識した言葉だと思います。「君の知らない世界」、その世界を、当然生きている自分は知っています。《君が知らない》《僕が知っている》世界が増えていくことは、自分と君との離別を印象付けます。誰しも、大切な人と世界を共有したいですよね。

 

そして、「増えていく 君を知らない世界」。次は世界からの目線になります。君を知らない世界が増える、それはつまり君の存在を必要としない世界が増えるということです。世界から、君の濃度が薄くなっていく様を描きます。「世界が君を知らない」って、すごく大それた言い方に思えませんか? 世界に対する君の存在が大きすぎるというか……、それだけ、自分にとっての君が大事な存在だったのだと思います。

 

極めつけは、「君の知ってる僕は 会いたいよ」。世界は変わって、君の知らないことも増えたけど、君の死から、僕は変わらず君の知ってる僕のままで、君を思っている。ストレートな「会いたい」に、某震える人と比べ物にならない説得力が宿ります。

 

 ***

 

 

Butterflies(通常盤)

Butterflies(通常盤)

 

 

 

ここにあげた歌詞以外にも、素晴らしい歌詞はたくさんあります。短絡的に捉えることなく是非テキストを読みこんで自身の解釈を深めていただければと思います。