竹林の屋敷

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『受験』というコンテンツを楽しんでいただけだったと気づいた

どうもこんにちは。大学生です。

 

私は入試を終えて1年が経ち、大学生活の要領も分かってきたところ。この時期おそらく多くの人が「なんで大学に入ったんだろう」とか「大学に行く意味あるのかな」とかおもって悩んじゃうのではないでしょうか。私の周りにもそういう人は多いし、私もそんなことをおもうことがままある。この悩み、結構ツラい。解決されないと4年間悩み続けることになり得るし、あんなに受験勉強をがんばったのにその意義を改めて問い質すのはけっこうきつい。

 

でもそうやって悩むのは当然のはなしで、だって大学にいって何を学んでるかってそんな大した事は学んでいないわけで。講義があるっちゃあるけど、正直つまらんし、ほとんどの時間でスマホいじってる。ていうか講義とか行かない。めんどくさいし。そんな学生ばっかでしょ? 挙句の果てに授業よりバイトの方が楽しいとか言っちゃう。じゃあ退学して働こうぜ。

 

だけど思い返してみてください。そんな腐れ大学生も高校生のときは華の大学生活を夢見てせっせと受験勉強に明け暮れていたわけでしょう。おいらは弁護士になりたい!だから○○大学の法学部に入るんや! 私は看護師になりたい!だから○○大学の看護学科に入るんや! E判定しかでないけど、がんばるんや! 絶対受かるんや! みたいな。あのエネルギーどこにいったよ。

 

そういう当時のことを思い起こして感じるのは、志望大学とか進路とかいうのは自分で考えたようで結局は回りに流されて決めただけのものでしかなくて、「なーんか高3になったし受験校を決めなきゃいけないらしいからよくわかんねーけど宇宙とかかっこいいし工学部入ってロケットでも作んべ^q^」みたいな軽いノリで決めたものしかなかったということ。

当時は、みんな、人生の重大ターニングポイントかのように考えに考えてるつもりでもね、そうじゃないんですよね。残念ながら、進路で悩んでいる学生は、「周りを見てると、どうやら進路について悩まなきゃいけないっぽいし、先生もそう言ってる」から悩んでいるというだけの話で、心の底から自分がこれからどう生きたいかなんて考えていやしないんです。

 

 

私自身の話をすると、自分はそれなりの進学校でレベルの高い授業を受けて、あくせく受験に向かって挑んでいました。進路もそれなりに(?)悩んで決めて、目標のために一生懸命で、まあまあ全力を出していたとおもいます。しかしそれは結局のところ、「志望校を決める→合格のために勉強する(この過程で友人・家族・先生との関係等において様々なイベントが発生し、おもしろい)→晴れて合格する」という一連のゲームを楽しんでいただけの話で、そこに実体はない。ことに今、大学生になってから気づいた。晴れて大学に合格して自分がやりたいとおもっていたことや学びたいとおもっていたことができるようになったのに、なーんか身が入らなくて「なんで大学に入ったんだ??」とか考えちゃうのはこのせいなんだ。実際大学に入りたいとはおもってなくて、受験という一連のシナリオを楽しんでいただけなんだ。

 

これは一種の「青春の幻覚」と言えるかもしれない。「大学合格に向けて、一致団結して精一杯やってやろうぜ!」 「桜咲かせようぜ!」 「皆合格して笑い合おうぜ!」とか言って、なんてことはない。皆そういう雰囲気に踊らされているだけだ。「受験は団体戦」とかいって私たちを煽っていた教師のことを私は忘れない。団体戦のはずがないでしょうが。カンニングでタイーホです!!(参考→

 

いわば、『受験』というコンテンツを楽しんでいただけ。「アニリンを!ジアゾ化して!!!””p-ヒドロキシアゾベンゼン!!””」とか、当時は楽しかったけど、終わってみればそれだけ。連続性はないから、大学に合格すればおしまいのゲーム。大学に入ってから「大学に来る意味あったのかな」とか考えて虚無感を持っちゃダメ。私たちは『受験』を楽しんでいただけだから。受かって、お世話になった人に報告して、おめでとうって言ってもらって、達成感を得て、完結なんだよ。

 

人生はそういうものの連続だからこれはある意味健全だけど、勘違いしちゃいけないね、というお話でした。