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竹林の屋敷

当ブログでは日本語が使用される。

梶井基次郎『檸檬』の檸檬が他の果物だったらどんな感じか考えてみた

青空文庫で読めます。→梶井基次郎 檸檬

 

梶井基次郎、1901年生まれ。

独特な感性で日常の中の内面世界を描いた稀代の作家である。

 

彼の作品の中でも一際評価の高いものが『檸檬』。あらすじはこうだ。

 

 

酒酔いで気分が悪くなり、神経衰弱気味になって街へ飛び出した。

金がなく生活は困窮し、現実を見失い安静したいと思う。

商店街でふと見つけた檸檬に胸を打たれ、買い、うれしくなる。

百貨店の本屋で積み上げた本のてっぺんに買った檸檬を置き、心躍る。

置いた檸檬をそのままにして店を出て、くすぐたったい気持ちになる。

 

…………

 

これだけ書くと「なんじゃい」という感じかもしれない。だが、『檸檬』には主人公の心情の変化が見事に描かれていて、これが楽しいのだ。ストーリーを通した描写が秀逸。檸檬の色彩、形状、温度、匂い、重量から幸福感を得る様から、日々の何気ないところに喜びが落ちているもんだと思わされる名作である。主人公の心持ちが過不足なく描かれるから、読み手も同じように楽しい気持ちになったりできる。

 

極めつけは結末部の奇怪なアイデア。買った檸檬を本屋の本の山のてっぺんに置きそのまま店を出るというものだ。ここにはピンポンダッシュをする子供のようないだずらっぽさがあって、いとしい。「このあとあの檸檬が爆発して店が吹っ飛べば……」などと考える主人公は、とてもすがすがしい心持のようである。読んでいてもどこかスッとする話だ。

 

 

紛れもない名著だが、私は思った。このお話は、主人公が、作者である梶井基次郎が選んだ果物が、檸檬だったからこうも心を打つ作品になったのだと。

 

すなわち、檸檬の持つ固有の特徴が重要なのであり、不細工な紡錘形、鮮やかなレモン色、鼻を抜ける酸っぱい匂い、握ったときの重み、これらの要素が絡み合うことで、『檸檬』は成立し、主人公の心が、読者の心が小躍りするストーリーとなり得たのだと考えた。

 

 

そこで私は、梶井基次郎檸檬』が、梶井基次郎『X』{X∈A | A: すべての果物の集合} であった場合を考えてみることにした。比較検証は研究の基本である。

 

 

梶井基次郎『林檎』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい林檎が出ていたのだ。

 私は林檎が好きだ。決して負けんと真っ赤に燃えるあの色も、それからあの美しく洗練された球形も。その林檎の手触りはたとえようもなくよかった。何も邪魔をするもののない、滑らかな曲面は快いものだった。林檎の甘い香りが心にフワりと広がった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に林檎を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その林檎は周囲のゴタゴタを圧するかのように赤く燃えていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの林檎の赤があの店を燃やしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

まずは、林檎。これは、存外悪くないと思った。林檎には独特な力がある。衰弱する心を潤すには十分だろう。林檎に胸を打たれるというのはまぁありそうな話だ。

 

しかし、やはり檸檬には及ばないと言わざるを得ない。そもそも、林檎と言うのは綺麗過ぎるのだ。学業優秀スポーツ万能容姿端麗な優男みたいないけすかない雰囲気がある。

 

街角でこう聞いて回ってみるといい。「果物といえば?」と。おそらくNo.1は林檎であろう。林檎は人気が過ぎるのだ。おいしいし、見た目が綺麗だし。そもそも、目立ちすぎのきらいがある。聖書で禁断の果実として描かれたり、物理学者アイザック・ニュートンの逸話に用いられたり、Appleロゴマークとして使われたり。林檎は紛れもない果物界のエースなのだ。

 

それに比べて檸檬はどうか。「酸っぱすぎて誰も食べない」「ぼこぼこでなんか不細工」。泥臭いのである。泥臭いが、鮮やかな黄色と鼻を抜ける匂いで精一杯の主張する健気さがあるのだ。こうした「ダメダメだけど一生懸命がんばるヤツ」に心打たれるから、『檸檬』の圧倒的魅力が生まれているのだ。林檎ではやはりダメだ。

 

 

梶井基次郎『葡萄』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい葡萄が出ていたのだ。

 私は葡萄が好きだ。決して主張はしない控えめなあの色も、それからあの一粒一粒が懸命に輝く姿も。その葡萄の手触りはたとえようもなくよかった。私の手を撫でる一粒一粒は快いものだった。葡萄の香りが自然の恵みを思い起こさせた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に葡萄を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その葡萄は周囲のやかましさをいなすかのように整然と居座っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの葡萄の一粒一粒が弾けて店を濡らしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

次いで、葡萄。これは、あまりよくない。私がこの編を書くために葡萄の魅力を必死に考える必要があった時点で、葡萄の敗北というものだ。私は右のタブで「葡萄 魅力」を検索していた。葡萄には心に訴えかける魅力が見当たらない。どうも貧弱である。

 

「一粒一粒が懸命に輝く」などと書いたが、これは全く実際ではない。「葡萄といえば一房に実がたくさんあるのが特徴だ」という思考により生まれた観念でしかない。実物の葡萄を見て輝いているなどとは露とも思わないであろう。そもそも、葡萄は色がいけない。地味すぎて心に訴えてくれない。衰弱した心に働きかけるには、分かりやすい視覚が必要である。

 

ただ、結末の、本の山の頂に葡萄が乗る光景は、悪くないなと思った。なんとなくわびさびがあってアートな気がする。ただ、これも「それはそれでいい」というだけの話で、荒んだ心を浮つかせるような魅力はない。檸檬は愚か、林檎にも遠く及ばなかったと言っていい。

 

 

梶井基次郎『蜜柑』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい蜜柑が出ていたのだ。

 私は蜜柑が好きだ。全てを包み込む優しいあの色も、それからあの不器用で不完全な形も。その蜜柑の手触りはたとえようもなくよかった。硬すぎず柔らかすぎない控えめな果皮は快いものだった。蜜柑の爽やかな香りが胸にサラリと運ばれた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に蜜柑を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その蜜柑は周囲の雑然さを包み込むかのように優しく笑っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの蜜柑が爆発してあの店が燃えてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

 檸檬と同じ柑橘類としてエントリーしてきた蜜柑。流石といったところか、檸檬に負けずとも劣らない魅力を感じる。檸檬と同じく蜜柑の造形も幾分か不細工である。ぼこぼこしてるし。それでいて優しい橙色をまとっていて、衰弱した心を癒すだけのチカラは備わっていそうだ。柑橘系の酸っぱい香りも感情を揺さぶるのに良い。

 

ただ、同じ柑橘類であることが祟ったか、やはり檸檬の下位互換という感は拭えない。どうしても、全ての点で檸檬が上回っているのだ。造形は、檸檬の方が素朴で愛らしい。蜜柑は果物としての基本形(球形)は失っていないから、やはり俗っぽさがあってよくない。色彩に関しても、檸檬の黄色の強烈さには負けている。心を突き動かすという点では、蜜柑は少し弱いか。香りも重量感も檸檬に軍配があがるだろう。手触りだけは、良い勝負だといえるかもしれぬ。

 

 

ここまでで、『檸檬』を名著たらしめているポイントがはっきりと見えてきただろう。檸檬が、強烈な個性(不細工な紡錘形、はげしい酸味)があってあまり好かれない存在であっても、精一杯の自己主張をしている点だ。林檎は完璧すぎたし、葡萄は主張がなさすぎたし、蜜柑も檸檬の個性には敵わなかった。檸檬の泥臭さの中の精一杯の自己主張が胸に響くのだ。

 

以前おしゃれについての文章で、自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れてファッションで自己主張している人は輝いて見えるというのを読んだことがある。その過程で「自分」を見つめ試行錯誤することが人の魅力に繋がるのだとも。

 

つまり、檸檬もそういうことなのだ。形は不恰好だし、酸味が強くて食べれたものじゃないが、鮮やかな色彩と鼻に抜ける香りで必死に主張している様が美しいのだ。果物界では決して主役ではない、スポットライトを浴びる立場にはないけれど、それでも自分らしく輝いている姿か人の心を打つのだ。

 

というわけで最後にあと2つ、檸檬に匹敵する個性を持った果物の挑戦を受けて、このエントリを終わりにしたい。もう少しお付き合い願いたい。

 

 

梶井基次郎『ドリアン』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドリアンが出ていたのだ。

 私はドリアンが好きだ。あのすすにまみれたような淡い色も、それからあの好戦的で刺々しい形も。そのドリアンの手触りはたとえようもなくよかった。手のひらをつんざくような刺激的な触感は快いものだった。ドリアンの強烈な臭味が鼻腔を震わせ、つーんという感じだった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドリアンを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドリアンは周囲のガチャガチャした有象無象を静かに圧するように佇んでいた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドリアンが爆発してあの店が絶望的な臭気に包まれてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

「自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れて自己主張している」、個性のある果物を、とドリアンが選抜された。しかしこれは失敗だったと言わざるを得ない。確かにドリアンは個性が強烈である。臭い。刺々しい。問題は、ドリアンは独特な個性で一点突破していることである。主張が激しすぎて神経衰弱には全然似合わない。

 

例えるなら、ドリアンはジャイアンなのだ。ドリアン=ジャイアン。圧倒的な臭気で回りをうんざりさせる様は、「おっれっはジャイアン♪ガキ大将」のアレと似ている。弱みを弱みとして認識せず、さらけ出しすぎてしまっていることが、ドリアンを檸檬の持つ魅力と大きくかけ離れさせてしまっている。檸檬は、奥ゆかしい。だから良い。ドリアンは力任せが過ぎる。力強すぎてダメだ。

 

檸檬の弱みは、形状と酸味である。檸檬は、ドリアンのようにそれらを無防備にさらけ出すことはしない。ただ、隠しもしない。紡錘形は紡錘形として、ありのままの自然体然としている。酸味は酸味で、匂いという形で強みとして変換をして主張している。まさに、自己を見つめ、弱さを受け入れ、その上で力強く自己実現をしている。檸檬の魅力がまた一段とはっきり見えてきた。

 

 

梶井基次郎『ドラゴンフルーツ』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドラゴンフルーツが出ていたのだ。

 私はドラゴンフルーツが好きだ。あの禍々しい不健康そうな色も、それからあのささくれがめくれたみたいな果皮も。そのドラゴンフルーツの手触りはたとえようもなくよかった。生命の伊吹に満ち満ちたような姿は快いものだった。ドラゴンフルーツのフルーティな香りは「なんくるないさー」というような感傷を引き起こした。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドラゴンフルーツを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドラゴンフルーツは理解を拒むような圧倒的な場違い感を醸し出していた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドラゴンフルーツが爆発してあの店が南国風になってしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

始めに断っておく。私はドラゴンフルーツを食べたことがないし、見たこともない。ならばなぜこんな編を書いてしまったのか? 気づいたら書いていたのだ。分かったことは、「ドラゴンフルーツではダメで、檸檬の方がいい」ということだ。そりゃそうだよな、というほかない。

 

しかし、ドラゴンフルーツを見て衰弱した心が潤う、というのは意外とありそうな話だ、という気もしてきた。ドラゴンフルーツは一目で異国だからである。『檸檬』でも、果実を嗅ぐことでその産地であるカリフォルニヤを想起する描写がある。自らと違う環境に思いを馳せること。これはつまり現実逃避だ。辛い現実から逃れようとすることで少し精神が落ち着くことは有り得るだろう。

 

ただし、実際のドラゴンフルーツにそのような効果があるか私は知らない。見たことがないからである。つまりこの編について私が確実に語りうることはないということだ。ああなんということでしょう。

 

 

結び

代表的な果実を5つ選抜して検討してみたが、やはり『檸檬』を『檸檬』たらしめるのは檸檬檸檬であったからにほかならないと結論できるだろう。林檎や蜜柑なんかでは全然だめなのだ。

 

そして特筆しておくべきは、梶井基次郎の優れた感性であろう。数ある果物の中から、最適な果物である檸檬を選抜した。流石の観察眼であり、稀代の作家として現代でも生き続ける理由の一端が垣間見えた。

 

 

檸檬 (新潮文庫)

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