竹林の屋敷

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有名な場所に行くな

先日京都は清水寺へ行った。友人の誘いだった。曰く、「舞台からの景色が見たい」とのこと。ぼくはさして見たいとはおもわなかったが、大事な友人であったので、承諾。京阪電車清水五条駅へ向かい、合流した。道すがら蕎麦を食らう。清水寺は坂の上にあり、訪れるには坂を上る必要がある。距離にして東大路通りからだいたい500mほどの坂だっただろうか。

 

さて、清水寺は有名な場所であるが、決して、訪れるべき場所ではない。かの寺は数々の寺社をひっさげる京都でも随一の観光地と言って良いが、その実、なにも面白いところはない。我々も「なんだかな」といった具合で観光を終えたのだった。その日が日曜日だったこともあり、我々の訪れた日も観光客でごった返していたが、その何人が清水の魅力心を奪われていたか、甚だ怪しいとおもう。それも当然で、「有名だからいくか」ぐらいの感覚で観光しているのだから、楽しめるはずもない。実際は「清水の舞台から飛び落りる」という慣用句から知名度が高い、というだけの話である。

 

すなわち彼らは(そして私たちも)、面白くは感じないけど有名だから、清水寺へ観光へ向かったのである。これはばかげている。同時に危険である。この行動には自己がなく、熱情に動かされる人間本来のあり方が欠如しているからだ。人間の行動は自らの意志と個性に基づいているべきであり、集団の観念に影響されるべきでない。こうした行いは働きアリが集団の意志のため無心で労働をするようなもので、文字通り各人の心がないのである。人間らしいとはとても言えない。

 

メディアの発達した現代だから、集団心理は操作しやすくなっている。一部の者たちの意思によって個が操られる時代と言っていい。観光産業とて例外でなく、メディアで名を上げれば人を集めることができる。そして集まる人は、女王アリに指図された働きアリである。メディアで少し話題になったからと群がる人々は滑稽ですらあり、自分の興味で動いたようにおもっていても所詮操られているだけだ。有名になったからと言ってものの本質が変わるはずがないわけで、気づく機会を与えられればたちまち無思慮にとびつくのはいかがなものか。丁寧に自己を見つめ、心からより美しい、よりよい、とおもったものへ向かう人間本来の姿とはかけ離れている。

 

流行が一部の人によってつくられている。こうしたものには、安易に乗ってはいけない。そこに自己意志はない。流行に乗るというのは、自己を殺してつまらない集団に迎合するおろかな行為である。

 

無思慮な観光客が清水寺参道の売店に群がる。人の集まる寺で商売をすれば、儲かるのは自明である。この道沿いの産業を生むための流行に乗ったアリたちに自分自身と呼べるものはなく、流行を形作る集団の無機質な構成員に成り下がっているにすぎない。こうして一個体としての主体は消えていき、自分が見えなくなってしまうのだ。

 

言いたいのは、こうである。「自己が埋没せらるから、有名な場所には行くな。」

 

 

そもそも、清水寺は仏像がよく見えないからだめである。本尊たる千手観音が暗くて奥まったところにあって、目を凝らしても木のカタマリと相違ない。しかもその仏は本尊とそっくり似せてつくったもので、本当の本尊(?)は隠されていて、33年に1度のご開帳らしい。見られて意味があるというのに、ばかげた話である。

 

本当は、こういいたい。「もっとよく、仏像を見せて。」