竹林の屋敷

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あらゆるものを愛するのだ! と思った日のこと

ある日、地球上のすべてのものを愛しつつ生きよう、という決意をした。その時のことを記そうと思う。

 

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* * *

 

その日、私は鬱屈していた。出先から帰る夜道であった。人の幸せや世の中の不平等さについて考えては、世界の在り方に対して違和感を覚えていた。考えてもしようがないとは分かっているが、考え始めると止まらなくなるのだった。歩きながら、私の心は泥沼へはまっていくようだった。

 

このまま家に帰ってはより内省的になり精神がやられることは自明だった。アパートの部屋の扉を開けるまでにどうしても心を晴らしておく必要があった。鬱屈したときはうまいものを食べれば気持ちが上向くと相場は決まっている、そう思った私は某牛丼チェーン店に入った。

 

牛丼店に入ったは良いが、その時の私の思考は「動物たちの命を奪ってまで生きる価値が俺にあるのか?」というようなところにまで至っていた。家畜の牛に生まれたという巡り合わせだけで殺されて食われるのはおかしいんじゃないかと頭を悩ませていた。考えるだけ無駄なことなのだと分かっているのだが、こうした、不条理に思われることについて私はたびたび考えてしまうのであった。

 

そういうわけで、牛丼や親子丼を食うのは少し憚られた。カレーを注文した。ビーフカレーである。牛入ってんじゃん、と思う。思うが、小さいのでましだった。「いただきます」といつもの10倍心を込めて唱えた。

 

うまい、と思った。牛はうまかった。うまいと思ったことが嫌だった。牛の命をいただき、うまいと快楽を得、その一方で私はただただ無為な日々を過ごしていることが嫌だった。要するに、「私には生きる価値と奪う権利があるのか?」という問いが頭を渦巻いていた。そして、答えを指し示す羅針盤は、否定の方向に切られているのだった。

 

私には生きる価値があるのか? 泥沼から抜けた今は、これほど野暮な問いはないと思う。そもそも価値基準が不明だからだ。しかし思考の泥沼にはまると、そんなことを考えてしまうのであった。鬱屈したときはうまいものを食えばいいと思っていたが、牛を食ったこともマイナスに働き、当時の私は、とても危ない状況にいた。

 

いかに私がこの泥沼から抜け出したか? 考え抜いた結果、私は愛に行き着いていた。奪った分だけ与えればいい、そんな安直なことではないのだろうが、世界のあらゆるものを愛し、感謝を胸にたたえながら生きることが、できる最大限のことであり、ほとんど唯一のことにも思えた。汝、隣人を愛せよ。と聞こえた。

 

これはかなり身勝手な解決である。牛も愛しているなら殺して食うなよ、という話だが、「それは仕方ないじゃん」と思えていた。身勝手な話だ。しかしその実、みんな身勝手なのだ。根本的な解決にはならないが、心は軽くなった。この急場しのぎを続けていればいつか私も死ぬのである。我、隣人を愛すべし。と唱えた。

 

実行に移そうと思った。私から最も近い人間は、何やらキッチンで作業をしている、学生バイトと見える青年であった。さぁ、愛し、労わるのだ。と聞こえた。いざ実行しようにも、直接言うのは少し気恥ずかしかったし、野暮だと思った。「ありがとう、お疲れ様」と言うだけでは工夫がない。何かないかと考えた。もっと、私に合っていて、ウィットに富んでいて、心安らぐような愛の表現はないかと。

 

思案の後、目の前にあるカレーの空き皿を見た私は「これだ」と思った。「これだ、これは超おもしろいぞ」と思った。作戦はこうだ。皿に残ったカレールーをスプーンでちょろりと弄り、「乙カレサマ」という文字列を完成させる。私は(会計は前払いなので)、そろりと退店する。空いた皿を下げに来た店員は、「乙カレサマ」を見てほっこりする。

 

繰り返すが、とっても身勝手である。ルーのだしとなった牛への冒涜であるのでは? という考えが頭をかすめる。しかしその時の私は店員への愛に燃えていた。皿下げなぞ適当に済ますのだから「乙カレサマ」を見ない可能性が高いのでは? という考えが頭をかすめる。しかし、その時の私は店員への愛に燃えているのだ!

 

「乙カレサマ」を完成させ、満足感たっぷりで店を出た。非常に軽やかだった。私は愛を与えたのだ! 路上の酔っ払いをも優しい気持ちで見れた。愛だよ、愛、と心から思った。ほとんど悟った気分だった。地球上すべてのものを愛そうと思った。部屋に帰った私は、気持ちよく床に就いた。あらゆる人を、動物を、植物を愛そう。これが、私の哲学だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、歩道を広がって歩く通行人たちに憤っていたことは言うまでもない。

 

 

 

 

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【大学】”普通の”サークル、宗教サークルよりよっぽど悪徳宗教じゃないか?

私の友達にSというのがいる。地方の医科大学に通う大学生である。ハンドボールのサークルに加入している。

 

夕食の場でSがこんなことを言っていた。

ハンドボール部での活動があまり面白く感じなくなってきて、ほかにやりたいこともあるし、部から抜けたいと先輩に相談したが、熱烈に、感情に訴えかける引き留めをされて辞めるに辞めれんかった」とまぁこういった具合である。

 

大学でサークル的なことにあまり関せずやってきていた私は2つの点で驚いた。

一つは、大学のサークルはもっと自由に人が出入りできるものではないのか、という点。

もう一つは、Sよ、なぜそこで素直にサークルに残っているのだ、という点である。

 

驚きを解消しようと、さらに話を聞いた。

 

Sによると、彼の大学ではハンドボール部に限らず部員の引き留め活動はよく行われていて、実際、辞めにくい雰囲気があるらしい。地方の医科大学で学生数が少ないという事情も影響しているのかもしれない。学生数が少ないから、一人減るだけでもサークルの運営が難しくなるのだろう。また、辞める側にしても、大学の規模が小さく村社会的であるから、一度離反すると元居たサークルの人とは勿論、全般的に人付き合いの面で不利を生じるらしい。

 

引き留める側の先輩はそういう事情を分かっていて、「君がいないとサークルが破たんしてしまう。大切な存在なんだ。どうか残ってくれ仲間じゃないか」とかいうことを言ってくるわけだ。仮にもサークル活動を共にしてきたわけだから、そう言われると辞めにくいのも無理はないのかね、と思った。

 

加えて、「今面白くなくても続けていれば何か得るものがあるし、卒業するときに達成感がある。やめてしまうと大学生活に張り合いがないよ」とかもっともらしい追い打ちが来るようである。つまるところ「サークルのために残ってほしいというだけじゃなく、君のためを思ってるからこそ、残ってほしいんだ」といった具合で、綺麗に外濠が埋められてしまっている。こうなってしまえば完全に辞めるほうが悪者である。

 

ここまで聞いて当初の驚きはだいぶ解消されたが、納得はしても違和感はぬぐえない。一生懸命引き留めて、辞めるとよくないことになると脅して、辞めるにやめれない。こんなもん、ほとんど宗教サークルじゃないか。

 

辞めてしまうと大学生活が不幸になる。活動していれば日々が輝かしいものになる、などと説得して、それでもええいと辞めてみれば、あいつは途中で投げ出したなどと後ろ指を指されるという具合だ。学生としては疑問を胸に抱きつつ活動を続けるしかない。これは宗教団体でなく、大学の”普通の”サークルで行われていることである。私には、投げ出すと神様の罰が下される~とか、活動してれば神のご加護が~とかと同じ次元に見えるが、どうだろうか。おまけにお布施(部費・大会への参加費・新歓でのおごり費)もあると来ている。

 

さらに言えば、彼らは自分たちが宗教的なことをしているという意識に乏しい。実際のところ、本当の宗教団体は、「これは世の中に人たちからすれば相容れないところもある」と認識した上で活動している場合も多いし、こちらが「合わないな」となれば割と簡単に解放してくれる。タイトルを悪徳宗教としたのはそのためで、宗教サークルはしっかり客観視して平和的に活動しているところもある一方、”普通の”サークルは、ほとんどが盲目的な正義感で押しつけがましく活動しているから、タチが悪いのだ。

 

これを私はサーハラと名付けようと思う。砂漠のことではない。サークルハラスメントの略である。

 

Sの話は地方の医科大学という特殊事情によるものも多分にあるとは思うが、他大学でもサーハラに苦しんでいる学生は結構多いのでは? と思う。なぜなら、非常に私的な感想だが、どう見てもクソめんどくさいのにサークルを大学生活の主に据えている学生がやけに多いからである。サーハラがなければサークルを辞めてもっと自主的な活動をする学生が増えると思われる。確たる根拠はないが。私が人間関係の面で少し拗らせすぎていて、存外みんな楽しくやっているのかもしれんが。

 

最後に解決策的なことを書いて締めとしたいと思うが、「つまんないならさっさと辞めろ」としか言いようがない。同時に引き留める側の人たちも違和感を覚えているべきだろう。そもそもサークルというのは、面白いと思うものが似通った人たちが自然に集まって自然になんやかんやするものであって、強制力なんてものはあってはならんのである。団体を継続させたいなら、構成員に働きかけるのでなく活動内容を向上させることを考えるのがあるべき姿だ。いやなことに耐えて耐えて最後に達成感を得るなんてのは大学まで来てやることではなくて、中高の部活ぐらいでやることだろう。

 

大学生諸氏にはサークル活動に関して今一度考え直すことをお勧めしたい。

梶井基次郎『檸檬』の檸檬が他の果物だったらどんな感じか考えてみた

青空文庫で読めます。→梶井基次郎 檸檬

 

梶井基次郎、1901年生まれ。

独特な感性で日常の中の内面世界を描いた稀代の作家である。

 

彼の作品の中でも一際評価の高いものが『檸檬』。あらすじはこうだ。

 

 

酒酔いで気分が悪くなり、神経衰弱気味になって街へ飛び出した。

金がなく生活は困窮し、現実を見失い安静したいと思う。

商店街でふと見つけた檸檬に胸を打たれ、買い、うれしくなる。

百貨店の本屋で積み上げた本のてっぺんに買った檸檬を置き、心躍る。

置いた檸檬をそのままにして店を出て、くすぐたったい気持ちになる。

 

…………

 

これだけ書くと「なんじゃい」という感じかもしれない。だが、『檸檬』には主人公の心情の変化が見事に描かれていて、これが楽しいのだ。ストーリーを通した描写が秀逸。檸檬の色彩、形状、温度、匂い、重量から幸福感を得る様から、日々の何気ないところに喜びが落ちているもんだと思わされる名作である。主人公の心持ちが過不足なく描かれるから、読み手も同じように楽しい気持ちになったりできる。

 

極めつけは結末部の奇怪なアイデア。買った檸檬を本屋の本の山のてっぺんに置きそのまま店を出るというものだ。ここにはピンポンダッシュをする子供のようないだずらっぽさがあって、いとしい。「このあとあの檸檬が爆発して店が吹っ飛べば……」などと考える主人公は、とてもすがすがしい心持のようである。読んでいてもどこかスッとする話だ。

 

 

紛れもない名著だが、私は思った。このお話は、主人公が、作者である梶井基次郎が選んだ果物が、檸檬だったからこうも心を打つ作品になったのだと。

 

すなわち、檸檬の持つ固有の特徴が重要なのであり、不細工な紡錘形、鮮やかなレモン色、鼻を抜ける酸っぱい匂い、握ったときの重み、これらの要素が絡み合うことで、『檸檬』は成立し、主人公の心が、読者の心が小躍りするストーリーとなり得たのだと考えた。

 

 

そこで私は、梶井基次郎檸檬』が、梶井基次郎『X』{X∈A | A: すべての果物の集合} であった場合を考えてみることにした。比較検証は研究の基本である。

 

 

梶井基次郎『林檎』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい林檎が出ていたのだ。

 私は林檎が好きだ。決して負けんと真っ赤に燃えるあの色も、それからあの美しく洗練された球形も。その林檎の手触りはたとえようもなくよかった。何も邪魔をするもののない、滑らかな曲面は快いものだった。林檎の甘い香りが心にフワりと広がった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に林檎を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その林檎は周囲のゴタゴタを圧するかのように赤く燃えていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの林檎の赤があの店を燃やしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

まずは、林檎。これは、存外悪くないと思った。林檎には独特な力がある。衰弱する心を潤すには十分だろう。林檎に胸を打たれるというのはまぁありそうな話だ。

 

しかし、やはり檸檬には及ばないと言わざるを得ない。そもそも、林檎と言うのは綺麗過ぎるのだ。学業優秀スポーツ万能容姿端麗な優男みたいないけすかない雰囲気がある。

 

街角でこう聞いて回ってみるといい。「果物といえば?」と。おそらくNo.1は林檎であろう。林檎は人気が過ぎるのだ。おいしいし、見た目が綺麗だし。そもそも、目立ちすぎのきらいがある。聖書で禁断の果実として描かれたり、物理学者アイザック・ニュートンの逸話に用いられたり、Appleロゴマークとして使われたり。林檎は紛れもない果物界のエースなのだ。

 

それに比べて檸檬はどうか。「酸っぱすぎて誰も食べない」「ぼこぼこでなんか不細工」。泥臭いのである。泥臭いが、鮮やかな黄色と鼻を抜ける匂いで精一杯の主張する健気さがあるのだ。こうした「ダメダメだけど一生懸命がんばるヤツ」に心打たれるから、『檸檬』の圧倒的魅力が生まれているのだ。林檎ではやはりダメだ。

 

 

梶井基次郎『葡萄』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい葡萄が出ていたのだ。

 私は葡萄が好きだ。決して主張はしない控えめなあの色も、それからあの一粒一粒が懸命に輝く姿も。その葡萄の手触りはたとえようもなくよかった。私の手を撫でる一粒一粒は快いものだった。葡萄の香りが自然の恵みを思い起こさせた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に葡萄を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その葡萄は周囲のやかましさをいなすかのように整然と居座っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの葡萄の一粒一粒が弾けて店を濡らしてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

次いで、葡萄。これは、あまりよくない。私がこの編を書くために葡萄の魅力を必死に考える必要があった時点で、葡萄の敗北というものだ。私は右のタブで「葡萄 魅力」を検索していた。葡萄には心に訴えかける魅力が見当たらない。どうも貧弱である。

 

「一粒一粒が懸命に輝く」などと書いたが、これは全く実際ではない。「葡萄といえば一房に実がたくさんあるのが特徴だ」という思考により生まれた観念でしかない。実物の葡萄を見て輝いているなどとは露とも思わないであろう。そもそも、葡萄は色がいけない。地味すぎて心に訴えてくれない。衰弱した心に働きかけるには、分かりやすい視覚が必要である。

 

ただ、結末の、本の山の頂に葡萄が乗る光景は、悪くないなと思った。なんとなくわびさびがあってアートな気がする。ただ、これも「それはそれでいい」というだけの話で、荒んだ心を浮つかせるような魅力はない。檸檬は愚か、林檎にも遠く及ばなかったと言っていい。

 

 

梶井基次郎『蜜柑』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しい蜜柑が出ていたのだ。

 私は蜜柑が好きだ。全てを包み込む優しいあの色も、それからあの不器用で不完全な形も。その蜜柑の手触りはたとえようもなくよかった。硬すぎず柔らかすぎない控えめな果皮は快いものだった。蜜柑の爽やかな香りが胸にサラリと運ばれた。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂に蜜柑を据えた。それは上出来だった。見わたすと、その蜜柑は周囲の雑然さを包み込むかのように優しく笑っていた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あの蜜柑が爆発してあの店が燃えてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

…………

 

 檸檬と同じ柑橘類としてエントリーしてきた蜜柑。流石といったところか、檸檬に負けずとも劣らない魅力を感じる。檸檬と同じく蜜柑の造形も幾分か不細工である。ぼこぼこしてるし。それでいて優しい橙色をまとっていて、衰弱した心を癒すだけのチカラは備わっていそうだ。柑橘系の酸っぱい香りも感情を揺さぶるのに良い。

 

ただ、同じ柑橘類であることが祟ったか、やはり檸檬の下位互換という感は拭えない。どうしても、全ての点で檸檬が上回っているのだ。造形は、檸檬の方が素朴で愛らしい。蜜柑は果物としての基本形(球形)は失っていないから、やはり俗っぽさがあってよくない。色彩に関しても、檸檬の黄色の強烈さには負けている。心を突き動かすという点では、蜜柑は少し弱いか。香りも重量感も檸檬に軍配があがるだろう。手触りだけは、良い勝負だといえるかもしれぬ。

 

 

ここまでで、『檸檬』を名著たらしめているポイントがはっきりと見えてきただろう。檸檬が、強烈な個性(不細工な紡錘形、はげしい酸味)があってあまり好かれない存在であっても、精一杯の自己主張をしている点だ。林檎は完璧すぎたし、葡萄は主張がなさすぎたし、蜜柑も檸檬の個性には敵わなかった。檸檬の泥臭さの中の精一杯の自己主張が胸に響くのだ。

 

以前おしゃれについての文章で、自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れてファッションで自己主張している人は輝いて見えるというのを読んだことがある。その過程で「自分」を見つめ試行錯誤することが人の魅力に繋がるのだとも。

 

つまり、檸檬もそういうことなのだ。形は不恰好だし、酸味が強くて食べれたものじゃないが、鮮やかな色彩と鼻に抜ける香りで必死に主張している様が美しいのだ。果物界では決して主役ではない、スポットライトを浴びる立場にはないけれど、それでも自分らしく輝いている姿か人の心を打つのだ。

 

というわけで最後にあと2つ、檸檬に匹敵する個性を持った果物の挑戦を受けて、このエントリを終わりにしたい。もう少しお付き合い願いたい。

 

 

梶井基次郎『ドリアン』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドリアンが出ていたのだ。

 私はドリアンが好きだ。あのすすにまみれたような淡い色も、それからあの好戦的で刺々しい形も。そのドリアンの手触りはたとえようもなくよかった。手のひらをつんざくような刺激的な触感は快いものだった。ドリアンの強烈な臭味が鼻腔を震わせ、つーんという感じだった。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドリアンを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドリアンは周囲のガチャガチャした有象無象を静かに圧するように佇んでいた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドリアンが爆発してあの店が絶望的な臭気に包まれてしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

「自分の弱さと強さをひっくるめて受け入れて自己主張している」、個性のある果物を、とドリアンが選抜された。しかしこれは失敗だったと言わざるを得ない。確かにドリアンは個性が強烈である。臭い。刺々しい。問題は、ドリアンは独特な個性で一点突破していることである。主張が激しすぎて神経衰弱には全然似合わない。

 

例えるなら、ドリアンはジャイアンなのだ。ドリアン=ジャイアン。圧倒的な臭気で回りをうんざりさせる様は、「おっれっはジャイアン♪ガキ大将」のアレと似ている。弱みを弱みとして認識せず、さらけ出しすぎてしまっていることが、ドリアンを檸檬の持つ魅力と大きくかけ離れさせてしまっている。檸檬は、奥ゆかしい。だから良い。ドリアンは力任せが過ぎる。力強すぎてダメだ。

 

檸檬の弱みは、形状と酸味である。檸檬は、ドリアンのようにそれらを無防備にさらけ出すことはしない。ただ、隠しもしない。紡錘形は紡錘形として、ありのままの自然体然としている。酸味は酸味で、匂いという形で強みとして変換をして主張している。まさに、自己を見つめ、弱さを受け入れ、その上で力強く自己実現をしている。檸檬の魅力がまた一段とはっきり見えてきた。

 

 

梶井基次郎『ドラゴンフルーツ』

 酒を飲みすぎて気分が悪く、不吉な塊が胸にうごめいている。街に出てフラっと入った果物屋で買い物をした。その店に珍しいドラゴンフルーツが出ていたのだ。

 私はドラゴンフルーツが好きだ。あの禍々しい不健康そうな色も、それからあのささくれがめくれたみたいな果皮も。そのドラゴンフルーツの手触りはたとえようもなくよかった。生命の伊吹に満ち満ちたような姿は快いものだった。ドラゴンフルーツのフルーティな香りは「なんくるないさー」というような感傷を引き起こした。

 それから本屋へ入った。昂奮していた私は積み上げた本の山の頂にドラゴンフルーツを据えた。それは上出来だった。見わたすと、そのドラゴンフルーツは理解を拒むような圧倒的な場違い感を醸し出していた。

 とても清々しい気持ちで店を出た。あのドラゴンフルーツが爆発してあの店が南国風になってしまったらどんなに面白いだろうと思った。

 

 

…………

 

始めに断っておく。私はドラゴンフルーツを食べたことがないし、見たこともない。ならばなぜこんな編を書いてしまったのか? 気づいたら書いていたのだ。分かったことは、「ドラゴンフルーツではダメで、檸檬の方がいい」ということだ。そりゃそうだよな、というほかない。

 

しかし、ドラゴンフルーツを見て衰弱した心が潤う、というのは意外とありそうな話だ、という気もしてきた。ドラゴンフルーツは一目で異国だからである。『檸檬』でも、果実を嗅ぐことでその産地であるカリフォルニヤを想起する描写がある。自らと違う環境に思いを馳せること。これはつまり現実逃避だ。辛い現実から逃れようとすることで少し精神が落ち着くことは有り得るだろう。

 

ただし、実際のドラゴンフルーツにそのような効果があるか私は知らない。見たことがないからである。つまりこの編について私が確実に語りうることはないということだ。ああなんということでしょう。

 

 

結び

代表的な果実を5つ選抜して検討してみたが、やはり『檸檬』を『檸檬』たらしめるのは檸檬檸檬であったからにほかならないと結論できるだろう。林檎や蜜柑なんかでは全然だめなのだ。

 

そして特筆しておくべきは、梶井基次郎の優れた感性であろう。数ある果物の中から、最適な果物である檸檬を選抜した。流石の観察眼であり、稀代の作家として現代でも生き続ける理由の一端が垣間見えた。

 

 

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

 

 

有名な場所に行くな

先日京都は清水寺へ行った。友人の誘いだった。曰く、「舞台からの景色が見たい」とのこと。ぼくはさして見たいとはおもわなかったが、大事な友人であったので、承諾。京阪電車清水五条駅へ向かい、合流した。道すがら蕎麦を食らう。清水寺は坂の上にあり、訪れるには坂を上る必要がある。距離にして東大路通りからだいたい500mほどの坂だっただろうか。

 

さて、清水寺は有名な場所であるが、決して、訪れるべき場所ではない。かの寺は数々の寺社をひっさげる京都でも随一の観光地と言って良いが、その実、なにも面白いところはない。我々も「なんだかな」といった具合で観光を終えたのだった。その日が日曜日だったこともあり、我々の訪れた日も観光客でごった返していたが、その何人が清水の魅力心を奪われていたか、甚だ怪しいとおもう。それも当然で、「有名だからいくか」ぐらいの感覚で観光しているのだから、楽しめるはずもない。実際は「清水の舞台から飛び落りる」という慣用句から知名度が高い、というだけの話である。

 

すなわち彼らは(そして私たちも)、面白くは感じないけど有名だから、清水寺へ観光へ向かったのである。これはばかげている。同時に危険である。この行動には自己がなく、熱情に動かされる人間本来のあり方が欠如しているからだ。人間の行動は自らの意志と個性に基づいているべきであり、集団の観念に影響されるべきでない。こうした行いは働きアリが集団の意志のため無心で労働をするようなもので、文字通り各人の心がないのである。人間らしいとはとても言えない。

 

メディアの発達した現代だから、集団心理は操作しやすくなっている。一部の者たちの意思によって個が操られる時代と言っていい。観光産業とて例外でなく、メディアで名を上げれば人を集めることができる。そして集まる人は、女王アリに指図された働きアリである。メディアで少し話題になったからと群がる人々は滑稽ですらあり、自分の興味で動いたようにおもっていても所詮操られているだけだ。有名になったからと言ってものの本質が変わるはずがないわけで、気づく機会を与えられればたちまち無思慮にとびつくのはいかがなものか。丁寧に自己を見つめ、心からより美しい、よりよい、とおもったものへ向かう人間本来の姿とはかけ離れている。

 

流行が一部の人によってつくられている。こうしたものには、安易に乗ってはいけない。そこに自己意志はない。流行に乗るというのは、自己を殺してつまらない集団に迎合するおろかな行為である。

 

無思慮な観光客が清水寺参道の売店に群がる。人の集まる寺で商売をすれば、儲かるのは自明である。この道沿いの産業を生むための流行に乗ったアリたちに自分自身と呼べるものはなく、流行を形作る集団の無機質な構成員に成り下がっているにすぎない。こうして一個体としての主体は消えていき、自分が見えなくなってしまうのだ。

 

言いたいのは、こうである。「自己が埋没せらるから、有名な場所には行くな。」

 

 

そもそも、清水寺は仏像がよく見えないからだめである。本尊たる千手観音が暗くて奥まったところにあって、目を凝らしても木のカタマリと相違ない。しかもその仏は本尊とそっくり似せてつくったもので、本当の本尊(?)は隠されていて、33年に1度のご開帳らしい。見られて意味があるというのに、ばかげた話である。

 

本当は、こういいたい。「もっとよく、仏像を見せて。」

ジャミロクワイの空間支配力について

ジャミロクワイというミュージシャンが居る。「5つ食べられるかい」の人である。

(参考↓)


日清 カップヌードル Jamiroquai 編 .flv

 

当エントリは、「カップヌードルを5つ食べられるか。」この問いに関する考察を行う。わけではない。違う。「味を変えつつならいけそう」とか、そういうことは書かない。カップヌードルをご所望の食いしん坊の読者諸君はお帰りいただきたい。

 

 

まず、ジャミロクワイは単なるカップヌードルの広告塔などではなく、世界的な人気ミュージシャンであり、「4つでギブのやつもうグッバイ」でブレイクした大人気バンド・サチモスにも大きな影響を与えたほどのバンドである。

(参考↓)


Jamiroquai - Space Cowboy

 


Suchmos "STAY TUNE" (Official Music Video)

 

 

ジャミロクワイの音楽を一言で表すなら「オシャレ」これに尽きる。途方もないオシャレ。それはもう、彼らの楽曲を聴くことで私自身がとってもオシャレな人だという気持ちになってくるほど。そんなはずはないのに。鼻に置くとこの曲がっためがねをかけて阿呆面をしているというのに。冬場は謎トレーナーしか着ないというのに。

 

実際、ロクワイの手にかかれば、行われるあらゆる動作がオシャレなものとなる。例えば、その右手で右の鼻穴をほじってみよ。とってもお下品なはずの行為。人に見られればたちまち嫌悪感で顔をしかめられるはずの行為。ところが、ロクワイの音楽さえあれば、とてもスタイリッシュで、ソフィスティケイティットでグレースフルな挙措に思えてくるであろう。これが、これこそが、ジャミロクワイの持つ恐るべき力の効能である。

 

聞く者へ働きかけ、さも自分がオシャレであるかのように感じさせてしまうジャミロクワイだが、ここで場の理論を援用する(参考→)。すなわち、対象へ働きかける力を持つものは、対象へ直接影響を与えているのでなく、周りの場を変容させることを通して対象へ働きかけているとしよう。ジャミロクワイが、部屋を、空間を、支配しているのである。スピーカーから流れ出るロクワイによって、この部屋のあらゆるものが、オシャレになる。「Everything is good...」ロクワイもそう言っている。私が鼻をかんだちり紙(元来とても汚い)だって。なにかとても、意味のある、ファッショナブルなものに見えてくるだろう。それだけではない。ジャミロクワイは空間を支配しているのだ。この7帖ちょっとにある全てのものが、支配されているのだ。歯ブラシが、コースターが、つい台湾で買ってしまった像笛が、電子辞書が、めがね拭きが、謎トレーナーが、さとうのご飯が、使い古し床に捨てられたままの乾電池が、その横のちじれた毛が、少し大きなホコリが、チリが、ブラジルが! ジャミロクワイの音楽の力で! とても!オシャレに!見えてくる!!!

 

 

と思い込むだけで、世界が素晴らしいものに感じられる。

私が言いたいのはそういうことです。